大河ドラマ「光る君へ」で花山天皇(かざんてんのう)役を俳優の本郷奏多(ほんごう かなた)さんが演じていますね。
花山天皇と聞いても、どんな人で何をした人なのかが分からないという方が多いのではないでしょうか。
今回は花山天皇がどんな人で、何をした人(在位経歴)なのかについて触れていきます。
花山天皇は どんな人?
花山天皇は どんな人であるかということで、先ず「生い立ち」「即位後と出家」「どんな人」など順番に触れていきます。
花山天皇の生い立ち
花山天皇は平安時代中期にあたる968年 11月29日に生誕しています。旧暦だと安和元年10月26日となります。
父は第63代 冷泉天皇(れいぜいてんのう)で、母は摂政太政大臣の藤原伊尹(ふじわら の これただ)の娘で藤原懐子(ふじわら の ちかこ)です。
冷泉天皇の第一皇子で名前は師貞親王(もろさだ しんのう)と言います。
花山天皇の兄弟には異母弟3人(三条天皇、為尊親王、敦道親王)と同母姉に尊子内親王(そんしないしんのう)など合わせて5人以上の兄弟がいたと思われます。
姉の尊子内親王は第2皇女であることから、第1皇女の存在があるはずですが、おそらく早くに亡くなったことで名が記されていないのだと思います。
花山天皇が生誕した頃の外戚勢力は、母・懐子の父・藤原伊尹が外祖父で摂政の座にある権力者でした。
藤原伊尹は972年に花山天皇が数え年で5歳の頃に病となり亡くなります。
花山天皇は生誕してから、わずか10ヶ月ほどで皇太子となりますが、5歳の頃に外祖父が亡くなったことで大きな後ろ盾が無いまま17歳で天皇位に即位します。
*花山天皇の家族関係
・冷泉天皇(父)
・藤原懐子(母)
・藤原伊尹(外祖父)
・尊子内親王(同母姉)
・三条天皇(異母弟)
・為尊親王(異母弟)
・敦道親王(異母弟)
即位と出家
花山天皇は984年(永観2年)に叔父の円融天皇から譲位されて即位します。
同年に為平親王(ためひら しんのう)の娘 婉子女王(つやこ じょおう)が宮中に入内していましたが、花山天皇の望みで公卿 藤原為光の娘の藤原忯子(ふじわら の よしこ)を寵愛して女御(にょうご)にします。
因みに女御とは、、
寵愛を受けた藤原忯子は後に懐妊しますが、出産することなく亡くなってしまいます。
花山天皇は忯子が亡くなったことに深く悲しみますが、その悲しみの傷を癒すために忯子より早く宮中に入内していた婉子女王を王女御(おうにょうご)とします。
美しいと評判であった婉子女王の父は為平親王で、花山天皇の父 冷泉天皇とは兄弟の間柄になります。
なので、花山天皇と婉子女王は従兄弟同士という間柄にもなります。
婉子女王は花山天皇の寵愛を受けますが、藤原忯子の亡くなった悲しみの傷を癒してくれるまでの存在にはなれなかったようです。
やがて、忯子が亡くなった事で花山天皇の深い悲しみを利用した側近がいました。
その側近とは公卿の藤原道兼で、花山天皇を騙し退位を促して出家させます。
出家した理由は「亡き藤原忯子の供養のため」であるそうですが、どうも権力の座にあった藤原忯子の父 藤原為光の追い落としを計った藤原兼家・道兼親子の画策のようです。
花山天皇が天皇として在位したのは、984年から986年までの僅か2年間でした。
19歳で一条天皇へ譲位してからは太上天皇(上皇)となっています。
花山天皇は どんな人
ここまで聞くと、花山天皇は少し可哀想で心優しい人と思うかもしれませんが、一方で天皇即位前と退位してからの出家後には女性問題の逸話もあるようです。
その逸話について記載します。
とても女性好きであることが分かりますね。
出家後に2人の妾からもうけた男子は花山天皇の父 冷泉上皇の子として育てられたようです。
花山天皇は亡き妻 藤原忯子の供養のために出家後、圓教寺(えんぎょうじ)から比叡山延暦寺を登り、戒壇院にて仏教に帰依する儀式を行ったことで やがて法皇となります。
後に観音様を供養する観音霊場三十三所巡礼の途中で菩提寺に辿り着き、その地で晩年まで隠棲生活を送ります。
花山天皇は巡礼中に書いた絵画や詠んだ和歌など芸術的才能があり、天皇在位中の和歌では「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」を自ら選んで側近に命じて編纂しています。
因みに、退位した時に出家を促した側近の藤原道兼は共に出家せずに朝廷に戻っています。
この時に花山天皇は、道兼に騙された事に気づきます。
花山天皇が どんな人であるかは、、
・寵愛していた藤原忯子が亡くなり、供養のために出家した心優しい人
・後ろ盾がないために側近に騙された可哀想な人
・絵画や和歌など恵まれた芸術的才能があった人
・反面、好色の趣味があり女性関係があった人
花山天皇は心優しい人、可哀想な人、芸術的才能があった人、女性関係があった人など様々な見方ができそうです。
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花山天皇 在位中何をした人?(在位中の経歴)
花山天皇は天皇に即位してからは、公卿の藤原義懐(ふじわら の よしちか)と下級貴族の藤原惟成(ふじわら の これなり)らに補佐されながら政治を行っています。
藤原義懐は、母 藤原懐子と兄弟なので義懐は花山天皇の外伯父になります。
天皇在位中に行った政策は、、
・荘園の整理
・破銭法による貨幣の流通活性化
・物価統制令
・武装禁止令
2年間の在位で成果があったのかは分からないですが、様々な政策を発令しています。
寺社や貴族らの財力による土地の開墾整理、質の悪い貨幣見直し流通活性、インフレが起こらないように物価安定など現在にも通ずる政治を行っていたと言えます。
しかし、同族の藤原氏の中では自身の利益や損得に見合わなければ政策を批判します。
花山天皇の在位中に関白職にあった藤原頼忠(ふじわら の よりただ)は、推し進めた政策を批判して義懐と惟成らと確執を招くことになります。
政治以外では和歌を詠み合う歌会なるものを開催しています。
※当時の歌会は正式には歌合(うたあわせ)と言うようです。
先ほど記載しましたが、開催した歌合では「拾遺和歌集」を自ら選んで側近に命じ編纂しています。
花山天皇の経歴
花山天皇の生誕から崩御するまでの経歴も一部記載しておきます。
*花山天皇の経歴
・968年11月29日/生誕
(旧暦:安和元年 10月26日)
(諱:師貞親王・もろさだ しんのう)
・969年/生誕10ヶ月で皇太子になる
・984年/17歳で即位
(婉子女王を女御にする)
(藤原忯子を女御にする)
(藤原姚子を女御にするが1カ月で退出)
(藤原諟子を女御にする)
・985年7月18日/忯子が懐妊中に亡くなる
・986年6月22日/19歳で退位、出家して太上天皇(上皇)となる
(寛和の変・かんなのへん)
・?年/法皇になった後、観音霊場三十三ヶ所を巡礼する
・?年/菩提寺(ぼだいじ)で隠棲する
・996年?/花山法皇襲撃される
・1008年3月17日/花山院(邸宅)にて39歳で崩御
この記事はウィキペディア情報を参考にしています。
*参考サイト
・花山天皇「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
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まとめ
花山天皇は どんな人で、在位中に何をした人かについてでした。
花山天皇がどんな人であるかというと、複雑なので一言では言えません。
花山天皇は亡き妻を思いやる心優しい人、側近に騙された可哀想な人、芸術的才能があった人、女性関係があった人など様々な見方ができます。
在位中に何をした人かについては、「荘園の整理」「破銭法による貨幣の流通活性化」「物価統制令」「武装禁止令」などがあり、成果は分からないですが現在に通ずる政治を行っています。
今回は大河ドラマ「光る君へ」で本郷奏多さんが花山天皇を演じますが、史実での在位期間が2年間ですから、あまり出演場面が少ないかもしれないですね。
和歌などの詠みが描かれるかもしれませんし、史実では4人の女御が存在していますから、どんな関係が描かれるのかも気になるところです。