1月7日に大河ドラマ「光る君へ」が放送されますが、俳優(女優)の吉高由里子さんが演じる主人公の紫式部(むらさき しきぶ)は歴史教科書でも取り上げているのでご存知な方が多いですよね。
歴史に興味のある人からすれば、紫式部は何時代(いつ)を生きて、何をした人か?くらいは分かりますよね。
今回は、あまり紫式部のことを ご存じないという方に向けて、彼女が何時代を生きて、何をした人なのか?について触れていきます。
大河ドラマ「光る君へ」に登場する まひろの家族構成や史実の家族構成についても見ていきます。
紫式部は何時代(いつ)の人?生誕はいつ?
紫式部は何時代(いつ)の人かについてですが、平安時代の中期に存在した人です。
貴族社会の歌人で作家でもあり、女官として宮廷にも仕えています。
現在の時代からだと1000年も前の人物ですが、紫式部の存在していた時期については様々な諸説があってハッキリとしません。
暦の上では1014年頃か1019年頃(寛仁3年)あたりまで存在していたと見られています。
これらの経緯から紫式部は平安時代の中期に存在してはいるようですが、正確な生没年はなどは不明です。
諸説などによれば、970年代から978年の間に生誕し1019年まで存命していたのではないかと見られているようですね。
ざっくりとした説だと紫式部は50歳にも満たない年齢で亡くなったのかもしれません。
当時の寿命から見ると普通と言えそうです。
平安時代の中期というと、あまり馴染みが無い時代かもしれません。
どの辺りだとか、分からないという人もいるかもしれないので、一応簡潔に記載しておきます。
*平安時代の年代と元号 | *平安時代の主な出来事 |
---|---|
・784年(延暦3年) | 長岡京遷都 |
・794年(延暦13年) | 平安京遷都 |
・899年(昌泰2年) | 菅原道真の右大臣就任 |
・939年(天慶2年) | 平将門の乱 |
・970年~978年 | どの年代かで紫式部が生誕? |
・1000年(長保2年) | 清少納言の「枕草子」完成? |
・1007年(長保4年) | 紫式部の「源氏物語」完成? |
・1017年(寛仁元年) | 藤原道長が太政大臣就任 |
・1027年(万寿4年) | 藤原道長が死去 |
・1118年(永久6年) | 平清盛が生誕 |
・1123年(保安4年) | 源義朝が生誕 |
・1156年(保元元年) | 保元の乱 |
・1159年(平治元年) | 平治の乱 |
・1167年(仁安2年) | 平清盛が太政大臣就任(3ヶ月で辞任) |
・1180年(治承4年) | 源頼朝が伊豆で挙兵 |
・1181年(治承5年?、養和元年?) | 平清盛が死去 |
・1185年 (平家と源氏で元号に違いあり?) | 壇ノ浦の戦いで平家滅亡 |
・1185年(文治元年) | 鎌倉幕府創始? |
これでも分かりづらいかもしれませんが、年代で登場する人物や主な出来事など教科書に出てきそうなものを記載したつもりです。
紫式部の存在した平安時代は丁度中間あたりで、784年の桓武天皇の長岡京遷都からだと200年後の世界、1185年の平家滅亡からだと200年前の世界になります。
紫式部の生涯年表についても記載しておきます。
※紫式部の生涯年表では正確な生没年はなどは不明なので曖昧な記載となります。
紫式部の生涯年表
*紫式部の生涯年表
・970年〜978年の間に誕生?
・年代不明?藤原道長の要請(日記作品/日々の記録)で宮中に仕える
・987年頃に道長の正室 源倫子の女房(女官)として仕えた可能性がある?
・998年(長徳4年)に又従兄妹(またいとこ)の藤原宣孝と結婚する
・999年(長保元年)に大弐三位(娘)が生誕
・1007年頃に中宮 彰子の女房(女官)、家庭教師として5年間ほど仕える
・1007年(長保4年)に紫式部の「源氏物語」が完成?
・1008年~1010年頃に記された「紫式部日記」
・1014年〜1028年までの間に紫式部が死去?
紫式部が死去した年月には様々な人物が提唱する説があり定まっていないようです。
続いて、紫式部の家族構成も記載しておきます。
紫式部 史実の家族構成
紫式部の家族構成ですが、父は藤原為時(ふじわら の ためとき)で官位が正五位下の貴族です。
母の名前は分かりませんが、父の官位より少し上の藤原為信の娘であるそうです。
紫式部は自分以外に同母と異母と合わせて5人の兄弟がいます。
家族で姉や妹などの女性の名前は分かりませんが、家族構成を記載しておきます。
*紫式部の家族構成
・藤原為時(父)
・藤原為信の娘(母)
・藤原為時の長女
(式部の同母姉)
・藤原惟規
(のぶのり/式部の同母兄か弟)
・藤原惟通
(のぶみち/式部の異母弟)
・定暹(じょうせん)
(僧侶で式部の弟)
・藤原為時の娘
(藤原信経の室/式部の姉か妹)
・紫式部
(藤原為時の次女か末娘)
・藤原宣孝
(のぶたか/式部の夫)
・大弐三位(だいにのさんみ)
(式部の娘で本名は藤原賢子)
紫式部は自分を含めて6人の兄弟です。
姉がいたのは確かなようで、式部自身が父 為時の次女か末娘になるのかは分からないですね。
後に夫となる藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)に嫁ぎますが、3年後に宣孝は死去します。
宣孝とは親子ほどの年の差があったと言われており、他にも妻がいたので、式部は継室か側室なのかは分からないですね。
宣孝には、式部と他の妻とで7人の子どもがおり、式部との間に大弐三位(だいにのさんみ)という娘がいます。
本名は藤原賢子という名前です。賢子は「かたいこ」や「けんし」と読むそうです。
大河ドラマの家族構成
大河ドラマ「光る君へ」で登場する紫式部/まひろの家族構成には、兄弟は2人だけで描かれている感じですね。
*ドラマでの家族構成
・藤原為時(父)
・ちやは(母)
・藤原惟規(弟)
・まひろ/紫式部
・藤原宣孝(夫)
・まひろの娘?
ドラマでは女性にも架空の名前が付けられています。
高杉真宙さんが演じる藤原惟規(ふじわら の のぶのり)は史実では式部の同母兄か弟とハッキリしていませんが、ドラマでは弟という扱いになっているようですね。
今後、まひろの娘くらいは登場するかもしれないですが、過去の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のように、後になって北条義時の兄弟や妹などがズルズルと現れるような展開はないのかもしれません。
紫式部の本名について、、
大河ドラマでは、まひろという架空の名前が付けられていますが、何を元にイメージして名付けられたのかは分かりません。
紫式部には正確な本名は無く、式部は名前でない事は分かりますよね。
式部は役所の官位であり、女官の呼び名にも使われていますので、役職名ということになります。
そんな紫式部にも本名があったとする説もあります。
その名前は「藤原香子」という名で読み方は「かおりこ」、「こうし」、「たかこ」と読むそうです。
ただ、諸説があるというだけでこれもハッキリとしません。
歴史上で女性の本名は古代に遡るほど男社会のためなのか記載が少ないですから、諸説だけでは鵜呑みにできないのでしょう。
紫式部が「藤原香子」であると少し不可解な部分が出てきます。
式部が嫁いだのは(藤原宣孝の元に)1度だけが通説のようです。
「藤原香子」は三十六歌仙の1人である紀時文(き の ときぶみ)に嫁いでいる説があります。
紀時文は父が「古今和歌集」の選者の1人として名高い貴族で、歌人でもある紀貫之(き の つらゆき)です。
紫式部が「藤原香子」同一人物であるなら、2度結婚している事になってしまい、1度だけの結婚の通説が崩れてしまいます。
実際に2人が同一人物であるのかは分からないので、何とも言えませんね。
紫式部は何をした人?
紫式部が平安時代の中期に何をした人なのかと言うと、、
・宮中の女官として仕えていた
(道長や正室、娘の彰子など)
・女流歌人、作家だった
・中古三十六歌仙や女房三十六歌仙の1人
・和歌集、物語作品、日記作品などを手掛けた
簡潔に言えば、、
更に紫式部の私的な部分では、夫の藤原宣孝が早くに亡くなっているので、幼い娘を女手一つで育てている苦労人でもあります。
ここからは、紫式部の作品やエピソードなどについて触れていきます。
紫式部の作品
紫式部の作品には、歌人として収められた和歌集、物語、日記などがあります。
*紫式部の作品
・和歌「百人一首」
・日記「紫式部日記」
・和歌集「紫式部集」
・歌集「拾遺和歌集」
・物語「源氏物語」
・和歌「百人一首」
「百人一首」の57番に詠まれたのが紫式部の和歌です。
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
— みゆう (@mickey8290) February 25, 2023
雲がくれにし夜半の月かな
百人一首 57.紫式部
超訳
巡り会いあなたか分からぬ間に行かれ
雲がくれする夜中の月のよう#百人一首#勉強中
意味は、、
巡り会えたのに、あなたかどうか分からない間に帰られてしまい、雲隠れした夜中の月のようです
、、となります。
「百人一首」のカルタをしている方はご存知かもしれませんね。
・日記「紫式部日記」
1008年の秋ごろから1010年 1月までの宮中の出来事を日記や手紙などから記載したものが「紫式部日記」です。
全内容で2巻あります。
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・和歌集「紫式部集」
「紫式部集」は、読んで意味を知ることで、紫式部の生涯にわたっての心情を汲み取れるかもしれません。
彼女の前半生と後半生での心情の変化に気付けると思います。
明るい和歌もあれば、虚無感や寂しい和歌もあります。
気になる方は読んで見られてはいかがでしょうか。
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・歌集「拾遺和歌集」
「拾遺和歌集」にも紫式部の和歌が多く残されているようですが、いつ成立された和歌集なのか分からない部分もあります。
1005年頃から1007年頃に成立したのではないかとも見られています。
・物語「源氏物語」
紫式部は代表作と言えば「源氏物語」が有名ですよね。
全54巻からなる長編小説です。
光源氏を主人公に彼と繋がりのある人々の恋愛や人生が描かれた物語で日本の古典では最高作品とも言われています。
他にも平安時代の貴族社会や文化も描かれているので時代背景を理解できるかもしれません。
「源氏物語」が完成した当初は貴族女性を中心に好まれたようで、写本も繰り返したことから幅広く読まれています。
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紫式部のエピソード
紫式部のエピソードについて、いくつか紹介します。
エピソードの中にはあくまで可能性があるかもしれないものもあります。
*紫式部のエピソード
・父、為時の一言「そなたが男であったなら」
・同時代の清少納言に嫉妬していた?
・紫式部は藤原道長の妾だったのか?
・源氏物語は夢の作品?
それぞれのエピソードについて触れていきます。
・父、為時の一言「そなたが男であったなら!」
学生時代の歴史教科書に記されていたので、このエピソードはご存知な方が多いかもしれないですね。
「そなたが男であったなら!」は、父の藤原為時が娘の紫式部に向けて言った一言であるそうです。
紫式部は父の影響もあると思われますが、漢詩文といった文学的才能が豊かで、為時が息子の惟規(のぶのり)に漢文を読み聞かせていると、式部はいち早く理解します。
為時は娘の漢文の読み聞かせを聞いて、その才能ぶりに驚き「そなたが男であったなら!」という一言を発します。
娘の紫式部からすると衝撃的な一言だったかもしれません。
父の為時からすると、、
・同時代の清少納言に嫉妬していた?
紫式部と同時代の歌人で随筆「枕草子」の作者 清少納言も式部と同様に有名ですよね。
清少納言も宮中に仕えていた時期があります。
ただ、お互いに仕えていた主が違うので、おそらく2人は面識はあまり無かったと思われます。
紫式部が仕えていたのは中宮 彰子(ちゅうぐう・あきこ/しょうし)で、清少納言が仕えていたのは中宮 定子(ちゅうぐう・さだこ/ていし)です。
お互いに宮仕えしていた時期が違います。
どうも清少納言は紫式部をライバル視して嫉妬という感情はあまり無かったようですが、式部は清少納言を意識していたのか、嫉妬という感情があったようですね。
それを表しているのが、次の一文です。
『「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
引用:紫式部 紫式部日記 人物表より 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)』
少し分かりづらいかもしれませんが、紫式部が清少納言に対して心よくない感情をもっていたのは感じとれるのではないでしょうか。
清少納言の漢文に対して否定的に述べていますし、人の人生の行く末にまで口を挟んでいます。
ここまで悪口を言う必要は無いと思いますが、内心 式部は清少納言の才能を認めていたのではないでしょうか?
しかし、清少納言に劣等感を抱いていたのか素直になれなかったのかもしれませんね。
また、官位にしても清少納言の「少納言」は低い地位ですが、式部の一族の官位が当時は低かったのかもしれません。
少しでも官位地位が上位の清少納言に対して紫式部は悔しい気持ちもあったのかもしれないですね。
・紫式部は藤原道長の妾だったのか?
「紫式部日記」の中には、妾だったのではないかと思わせるような一文もあります。
『夜半に道長が彼女の局をたずねて来る一節があり』
引用:紫式部 紫式部日記 道長妾より 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
夜中に道長が式部の元を訪れていることは確かなようですが、そんな道長を式部は上手くはぐらかしてもいたようです。
この一節がいつ頃かは分かりませんが、おそらく道長の娘の中宮 彰子が出産のために実家に里帰りしていますから、彰子の女房(女官)だった式部も伴って同行したはずです。
「紫式部日記」には、道長と式部の和歌のやり取りが交わされた部分がありますから、中宮 彰子が実家に里帰りした頃にお互いにコミュニケーションをとっていたのだと思われます。
道長の誘いや戯れに対して、式部も戯れで返答していたそうですね。
紫式部は藤原道長の妾だったのではないかと憶測されているようですが、2人の関係については不明です。
・源氏物語は夢の作品?
源氏物語が夢の作品と言うと不思議に感じるかもしれません。
どうも紫式部自身が「源氏物語」に関わる夢を見たと言うのです。
この夢こそが「源氏物語」を執筆するきっかけとなったようです。
何とも不思議な話ですが、式部には何か予知夢というか霊的なものが見えていたのかもしれないですね。
ただ、飛鳥・奈良時代の「万葉集」や平安時代の「古今和歌集」には、恋愛の和歌も収められていますから、式部が見た夢とは最古の和歌集をヒントに創作したのがきっかけかもしれません。
最古の和歌集「万葉集」「古今和歌集」をヒントに創作したのがきっかけかもというのは、あくまで筆者の憶測です。
・源氏物語を執筆したきっかけ!(現在の解釈)
先ほど、源氏物語は夢の作品という事で、この夢こそが「源氏物語」を執筆するきっかけとなったという話を紹介しましたが、現在は見方や解釈が違っているようです。
紫式部が結婚して夫の藤原宣孝が早くに亡くしている(結婚3年後)ことは先ほど説明しているので分かっていると思います。
亡くなった夫との別れが「源氏物語」を執筆する きっかけになった理由は、紫式部が書いた和歌の中に、その心情が記されているようです。
夫が亡くなった悲しい現実を軽減するために物語を執筆したことが きっかけと考えられています。
物語を作り出した中では、自分の経験や辛い人生観などを取り入れて、もう一度人生を顧みることで作品を創作したと見られているようですね。
この記事はウィキペディア情報を参考にしています。
*参考サイト
・紫式部「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
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【光る君へ】主演の吉高由里子さんは左利き?
1月7日に大河ドラマ「光る君へ」が始まりますが、主演の吉高由里子さんは左利きとの事です。
紫式部/まひろ を演じることで、左利きを右利きとして筆を持ち替えることから役作りを始められたそうです。
撮影に入る半年前から右手で書く練習をしていて、書道の先生も付いているようです。
紫式部は漢詩文や日記作品を主に書く人ですから、左利きだった人が右手に筆を持ち替えるというのは苦痛ではないでしょうか。
因みに、どうでもいいですが筆者も左利きです。
ただ、読み書きだけは、幼い時に右手に無理やり矯正させられました。
なので、全てが中途半端です。
読み書きは右手、お箸で食べるのは左手、細かい事は右手しかできない、細かい事は左手では苦手など、あまり筆者の場合は良いことはありません。
少々話は逸れてしまいましたが、吉高由里子さんが右手に筆を持ち替えての役作りは日々上達しているそうです。
史実では紫式部と関係が不明な藤原道長を柄本佑さんが演じていますが、大河ドラマではどんな描かれ方をするのかもみどころの一つですね。
まとめ
紫式部は何時代に何をした人かや史実と大河ドラマの家族構成についてでした。
紫式部が存在した何時代は、、
・平安時代中期(10世紀末頃から11世紀)
紫式部の史実と大河ドラマの家族構成の違いは、、
・史実では式部を含めて6人兄弟だった
・大河ドラマでは弟の惟規(のぶのり)と自身を含めて2人兄弟な描き方
紫式部が何をした人かについては、、
・宮中の女官として仕えながら、日記作品(日々の記録)をとりながら、和歌集や物語作品を手掛けた人
紫式部の作品は、、
・和歌「百人一首」
・日記「紫式部日記」
・和歌集「紫式部集」
・歌集「拾遺和歌集」
・物語「源氏物語」
以上がまとめです。