豊臣秀吉の妹で朝日姫という人物が小牧長久手の合戦後に歴史の表舞台に出てきます。
戦国乱世を終わらせるために兄の秀吉に利用された可哀想な人として認識している方が多いかもしれません。
朝日姫は知名度もあってご存知な方も多いかもしれないですが、あまりご存知ない方に向けて朝日姫が何をした人なのかや前夫の離縁の謎などについて紹介します。
朝日姫の前半生
*朝日姫のプロフィール
・生年月日/1543年(天文12年)月日不明
・両親/父?、母 大政所(仲・なか)
・死没日/1590年(天正18年)1月14日
(西暦 1590年2月18日)
*配偶者(夫婦でいた時期)
・徳川家康(1586年~1590年)
・佐治日向守(?~1586年まで?)
・副田吉成(?~1586年まで?)
朝日姫は1543年(天文12年)に母である大政所(仲)の娘として誕生します。
父は母の再婚相手の竹阿弥(ちくあみ)と見られていますが、はっきりとしないことから兄の秀吉とは異父妹なのか?同父妹なのか?これについてもはっきりとしません。
後に成長して尾張国の農家に嫁いでいることから出生地も尾張国のどこかの地域であると思われます。
嫁いだ夫についても分からないことが多いです。
兄の秀吉が出世することで夫も武士として取り立てられるのですが、この間に離婚して再婚していたとか、離婚などしておらず夫の名前が変わっていて同一人物であるとか、とにかくはっきりとしません。
この経緯から最初に嫁いだ夫が副田吉成(そえだ よしなり)で、次に再婚したのが佐治日向守(さじひゅうがのかみ)である?かと思えば佐治日向守と副田吉成は同一人物である?など諸説が様々でとにかく、ややこしくて分からないことだらけです。
朝日姫が徳川家康に嫁ぐ前の夫についての詳細は不明な部分が多いです。
彼女の前半生は農家に嫁ぐ前の詳細は分かりませんが、嫁いだ後は兄の出世に伴って夫も取り立てられていますから、夫に付き従って支えていたのだと思われます。
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朝日姫が徳川家康に嫁ぐ前の経緯と前夫の離縁の謎?
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1584年(天正12年)3月に兄の羽柴秀吉軍が小牧長久手の戦いで織田信雄・徳川家康連合軍と争うことになります。
戦いにおいては織田・徳川連合軍の勝利で終わりますが、合戦後は織田信雄の領土を攻略して講和に結びつけたり、家康の子息を人質に和議を結ぶなど政治的に優位な駆け引きをしています。
更に朝廷に働きかけて1585年(天正13年)7月には関白に就任し、周辺各地や西国の大名らも手懐けて、徳川家康を討伐する計画を立てようとしますが、ここに思いがけない事が起こります。
被害が甚大な天正地震が発生します。
徳川家の領土も被害はありましたが、秀吉の得ている領土の方が被害が甚大であったようです。
当初は徳川領に攻め込む気でいた秀吉ですが、天正地震が起こったことで戦略を変えて家康を臣下に迎えることを画策します。
そこで、政略結婚で白羽の矢が立ったのが妹の朝日姫(旭とも)です。普通に暮らしていた朝日姫からすると、いい迷惑だったかもしれないですね。
この時、朝日姫はおそらく夫と暮らしていたと見られているようです。
兄の秀吉が強制的に離縁させて家康に嫁がせたなどの話がありますが、定かでないので詳しい経緯は分りません。
離縁されたとある佐治日向守(さじひゅうがのかみ)には離縁後に諸説がいくつかあるようです。
*離縁させられた佐治日向守のその後
(秀吉の命令で離縁)
・面目を失って自殺
・頭を丸めて(剃髪)隠居
・出家後に憤死
離縁させられた佐治日向守のその後については様々な説があってはっきりとしません。
秀吉から捨扶持(すてぶち)として500石を与えられた後に自殺したという説もあります。
他にもある説では元々秀吉が強制的に離縁させたわけではないというものもあります。
家康に嫁ぐ前に前夫とは既に離縁していたのではないかと見られている一文があります。
『近年では本能寺の変の頃には既に離縁していており、政略結婚のために強制的に離縁された訳ではないとする説も出されている』
引用元:朝日姫「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
本能寺の変というと家康に嫁ぐ4年くらい前には離縁していた事になるようです。
これが事実であれば秀吉が強制的に離縁させたというわけではないという事になります。
朝日姫は未亡人であったという事にもなりますね。
ただ、これも一つの説として出されているので定かではないです。
他にも本能寺の変よりも前に死別していたのではないかという説もあるようです。
『秀吉が長浜城主だった頃に不祥事を起こし、切腹したという』
引用:佐治日向守「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
秀吉が長浜城主だった頃となると1573年の頃に城主となっていますから、本能寺の変が起こる1582年までの間に死別したのではないかと考えられます。
この説でも早くから朝日姫は未亡人だったという見方ができます。
結局のところ本能寺の変の頃に離縁したのか?
秀吉が長浜城主だった頃から本能寺の変の間までに死別したのか?
どちらも出されている説が定かでないので何とも言えないですね。
天下人の妹でありながら、前夫についての詳細が分からず諸説がいくつもあるというのは不思議なものを感じます。
朝日姫の前夫について秀吉には何かを隠しておきたい意図があるのかもしれませんね。
後半生は兄の命令で徳川家康に嫁ぐ!
兄の命令で徳川家康に嫁ぐ事になりますが、朝日姫は既に年を取っていると言えるかもしれないですね。
生年は1543年(天文12年)ですから、徳川家康と同年代になります。
1586年(天正14年)に嫁ぎますから数え年で44歳という事になります。
政略結婚とは言えど戦国時代に40歳を過ぎた女性を嫁がせるなど正気の沙汰ではないと思うのではないでしょうか。
秀吉の妻である北政所(おね)からの一族を養女として嫁がせる手もあったのではないかと思いますが、それでは家康を臣下として迎えるのには効果がないと考えたのかもしれないですね。
そこで効果的なのは秀吉の血縁として一番に近かったのが朝日姫しかいなかったという事でしょう。
嫁ぐ以前は「姫」などと呼ばれていなかったでしょうし、兄の命令で突然「姫」呼ばわりされても拒否できないところに「四十を過ぎたオバアに何が姫じゃ!」という思いくらいは朝日姫の本心にあったかも?しれないですね。(勝手な憶測です)
朝日姫は徳川家康に嫁ぎ駿府の地に居を構えたことから後の名前は駿河御前(するがごぜん)と呼ばれるようになります。
家康は以前の正室の築山殿(瀬名)が亡くなって以来は正室を置かなかったので、朝日姫は継室として迎えられたようです。(一応は家康への人質です)
ただ、一説には築山殿が亡くなった後に徳川秀忠と松平忠吉の母である西郷局(お愛の方)が正室になっていたのではないかとの説もあることから、もしかすると朝日姫が嫁いでくることで正室の座を降りた可能性もあるかもしれませんね。
無事に婚礼が済んでも家康は上洛して兄の秀吉に臣従する動きが無いことから、秀吉は次に母親の大政所(仲)を朝日姫を訪ねるという名目で人質に出します。
流石に家康も娘と母の親子を人質に出されて参ったのかは分かりませんが上洛して秀吉に臣従し、臣下の礼をとることになります。
家康が兄の秀吉に臣従したことで徳川家との争いは無くなりますが、家康との婚姻生活は長くは続かなかったようです。
家康に嫁いでから2年ほどは婚姻生活はあったようですが、後に母の大政所の体調が思わしくないことから病気見舞いに戻ったり帰国したりしています。
最終的には朝日姫は病気がちとなり聚楽第に住んでいたようですね。
1590年(天正18年)1月14日に47歳で死没しています。(西暦だと1590年2月18日)
京都市にある東福寺に葬られたようですね。朝日姫が亡くなった時期は関東の北条氏を攻める小田原征伐の準備期間であったことから喪を秘していたようです。
亡くなった後の法名では南明院(なんめいいん)と呼ばれることもあるようですね。
喪を秘していた理由はおそらく小田原征伐の全軍の士気や兵士個人のモチベーションが下がることを考慮したのではないかと思われます。(筆者の個人的な憶測です)
まとめ
・朝日姫の家族構成については秀吉の妹であることは確かですが、父が竹阿弥と見られているとか、そうではないなどで秀吉と同父妹なのか?異父妹なのか?がはっきりとしません。
・朝日姫が徳川家康に嫁ぐ前の前夫についての詳細は、はっきりとしません。副田吉成に先に嫁ぎ離縁後に佐治日向守と再婚かと思えば、佐治日向守と副田吉成は同一人物であるとか様々な説があり定かでありません。
・朝日姫が徳川家康に嫁いだことで、兄の秀吉と家康は争いをせずに済んでいます。結果的には母の大政所が人質になったことで和議となっています。
朝日姫の前半生は前夫を含めて分からない事ばかりですが、後半生に家康に嫁いだことで戦国乱世を一時的に終焉に向かわせる一歩に近づけたのではないかと思います。
ただ、彼女自身の人生として見ると、秀吉に前夫を強制的に離縁させられたのか?既に前夫は本能寺の変の頃に離縁か死別していたのか?詳細は分かりませんが、兄に利用された可哀想な人にも見えますね。
母親の大政所を人質にしたことで家康を上洛させることに成功しますから、別に初めの人質は朝日姫でなく、北政所(おね)の一族から養女に迎えて嫁がせても良かったのでは?と筆者は個人的に考えてしまいます。
他の娘を嫁がせていれば朝日姫は政略というものに関わりなく普通の生涯を送れたのではないでしょうか。
歴史にもしは無いので何とも言えませんが。
以上、秀吉の妹の朝日姫は何をした人かや前夫の離縁の謎についてでした。