諸葛亮は天下を統一する気は無かった?

諸葛亮
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三国志で有名である蜀の諸葛亮天下を統一する気は無かった?と言われると不思議に思われるかもしれません。

劉備玄徳三顧の礼で迎えられる前に天下三分の計を説いているわけですから、統一を前提に話しているわけです。

今回は、諸葛亮が天下を統一する気がなかった?根拠について採り上げたいと思います。

ご興味のある方はお付き合いください。

目次

諸葛亮は当初では天下を統一する気でいた!

諸葛亮劉備天下三分の計を説いている頃は統一する仮定で話を進めていたはずです。

劉表の荊州劉璋の益州を併合して、呉の孫権とは同盟関係を維持します。魏国に変事があれば連合して討伐するような内容が語られています。

諸葛亮の初めの目的は劉備軍の拠点を築く事でした。(天下統一の為の足がかりとして

目的通りに荊州と益州を領有して劉備が漢中王になるまでは天下を統一する気があったと思います。

天下を統一する気が無くなった要因

荊州失陥から天下を統一する気が無くなった?関羽の荊州失陥

劉備軍が拠点を獲得して、劉備が漢中王になるまでは順調でした。問題は関羽の失策です。

関羽が呉国の同盟を信じていたいたのかはわかりませんが、本拠地の公安の守備軍を前線に向かわせたことが原因でした。

呉国の孫権軍は公安の守備が手薄な時を狙い、奪い取りました。呉国としては、奪ったという認識はなかったと思います。

元々、呉国は赤壁の戦いに勝利して荊州南部の領土を獲得するはずでした。それを領土を持たない劉備に貸し与えていたというわけです。

赤壁の戦いは魏の曹操と呉の孫権とでの戦いであり、劉備軍は戦いには殆んど参加していません。劉備に荊州南部の領土を獲得する権利は本来は無いのです。

領土を貸し与えていた呉国の目線で見ると劉備は弱い立場でした。

この荊州失陥から諸葛亮は天下を統一する気持ちが薄れていたのではないかと思います。

劉備の夷陵の戦い敗戦

荊州失陥後に漢王朝が廃されて、曹丕が皇帝に即位し魏王朝を起こします。劉備は漢王朝の皇統を継ぐものとして皇帝に即位し蜀漢王朝を起こします。魏と対等な立場になりました。

劉備は皇帝即位後に関羽の復讐を兼ねて荊州奪還のための呉征伐に向かいます。臣下の趙雲が強く反対しますが、劉備は聞き入れませんでした。

諸葛亮も反対であったとは思いますが、内心は迷っていたのではないでしょうか?

魏を打ち破るには荊州の領土がどうしても必要だと考えていたはずです。漢中から長安へ進行する一方面の攻撃経路では勝利は厳しいと考えていたことでしょう。

劉備の東征に荊州奪還は確率としては低いですが、望みとして賭けていたのではないかと考えられます。

結果は劉備の大敗で終わります。多くの人材や将兵を失います。

諸葛亮は、この時点で天下を統一することを半ば諦めていたのではないでしょうか?

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北伐の進行経路から見る諸葛亮の統一意思の無さ?

諸葛亮は北伐を5度あたり起こしますが、北伐の経路を見ても長安を直接攻撃する進行経路は避けています。

第一次北伐から部下の魏延が別動隊で直接に長安を攻撃する進行経路を進言していますが、却下しています。

言い方としてはおかしいですが、実に周り諄い経路を進行しています。

第一次北伐

陽動作戦で魏の西方の領地である南安天水安定が寝返りましたが、街亭の戦いで敗れて頓挫する。

第二次北伐

陳倉城を包囲して攻撃したが、兵糧不足で撤退する。

第三次北伐

武都郡と陰平郡を攻めて2郡を平定する。

第四次北伐

祁山の戦いで微妙な勝利であったが、兵糧不足のために撤退する。

第五次北伐

五丈原で蜀軍と魏軍で睨み合いな状態が続き戦いらしいものも無いまま諸葛亮が陣没して撤退する。

※5度の北伐経路を見て分かるように長安から離れた場所で戦闘が行われていることから、長安だけでなく中原回復や統一を半ば諦めていたと考えられます。

出師の表で魏国を打倒する旨を掲げているわりには、何か逃げ腰なものを感じます。諸葛亮は何がしたかったのでしょうか?

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まとめ

上記ことをを鑑みて、諸葛亮は天下三分の計の既定路線を変更するしかなかったのだと思います。

天下を統一する気は無かったのではなく、状況次第で変えざるを得なかったのが本音だと思います。関羽の失策が無く荊州が領有できていれば、そのままの既定路線で考えたはずです。

劉備が呉国へ東征した時は荊州奪還の望みを少し期待したと思いますが、頓挫したことから完全に統一することを諦めて既定路線を変更したのでしょう。

諸葛亮が北伐を敢行しましたが、何をしたかったのか?く分からない状況です。

恐らく、諸葛亮は少しでも領土の拡張を狙っていたのだと思います。

第一次北伐では一時的ですが、南安天水安定を獲得していた事や第三次北伐では武都陰平の2郡を平定しています。

領土を少しでも獲得して蜀漢王朝の存続を計ろうとしていたのではなでしょうか?(あくまで憶測です

少し話から逸れてしまいますが、諸葛亮が天下を統一する既定路線に変更が生じる事になったきっかけは龐統の死が深く関わっていたと考えています。

龐統の死が無ければ、諸葛亮、張飛、趙雲などは荊州に残っていたはずですから、呉国に隙や弱点を曝け出す事は無かった事でしょう。

外交においては、諸葛亮が対処できるでしょうから、関羽が死ぬ事も無かったと考えられます。

この龐統の戦死が、諸葛亮の天下を統一する既定路線を変更する要因になったと考えています。

皆さんは、どのようにお考えでしょうか?

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この記事を書いた人

どうも初めましてマサと申します。岡山県在住の猫好きな50代のオッサンです。よろしくお願いします。
  *星座:牡牛座

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