諸葛亮は人を見る目や時勢が読めなかったのか?

諸葛亮
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何でも先の事をお見通しのような諸葛亮ですが(三国志演義の影響が強い)後半の場面になると先の見通しに陰りが見えてきます。

三国志は演義の虚構が7割史実が3割で最終的には正史の流れに沿っていますから後半に陰りが見えて来るのはある程度は仕方ないかもしれません。

前半の見通しは良かったのに後半は何故、先が読めなかったのだろう?と思ってしまいます。

そこで、諸葛亮は人を見る目があったのか?時勢が読めなかったのか?ということについて考えてみたいと思います。

ご興味のある方はお付き合いください。

目次

諸葛亮は人を見る目がなかったのか?

諸葛亮は蔣琬(しょうえん)、費禕(ひい)、馬謖(ばしょく)、姜維(きょうい)など他にも多くの人材の才能を評価して用いています。

その中で主君の劉備は蔣琬と馬謖を高く評価をしなかったようです。

劉備が蔣琬を評価しなかったのは蔣琬が広都の県長(現在でいうと知事)時代に政務をほったらかして泥酔していた様子だったので劉備は怒り処刑しようとしましたが諸葛亮が止めました。(普通に考えると劉備の行動は間違ってはいません)

諸葛亮は

「蔣琬は国家の柱石となるべき器であり、県長程度の人物ではありません」

と蔣琬の才能を述べて劉備は処刑を止めました。(どことなく経緯が龐統と似ています)

蔣琬は後に北伐を行った時の後方支援で兵糧や軍兵を滞りなく補給していたことや諸葛亮亡き後の民心の安定にも務めていました。

蔣琬についての諸葛亮の判断、評価は間違っていなかったと思います。

しかし、馬謖については評価を見誤ったと思います。

諸葛亮は馬謖を評価していますが、劉備は馬謖を評価してはいません。

劉備は亡くなる間際に諸葛亮に馬謖を重用するなと言っています。

「馬謖は口で語れるほどの実力を持ち合わせてはいない」

要するに口だけの人物だから重用するなと言っているのです。

諸葛亮は自身の評価に自信があったのかどうかは分かりませんが、この時の劉備の忠告を無視しています。

無視した結果、街亭の戦いで馬謖を起用したことから 敗れています。明らかに馬謖の才能を読み違えた人選ミスです。

馬謖の評価については諸葛亮の見る目がなかったと思います。

この時の評価は劉備のほうが人を見る目が諸葛亮より長けていたと思います。

諸葛亮は時勢が読めなかった?

天下三分の計を説いている時の見誤り?

諸葛亮が劉備に天下三分の計を説いている一説に疑問を感じるところがあります。

荊州と益州を領有して天下三分を維持するまでの話は分かります。問題は正史三国志に記載されている後の一説にあります。

「朝廷の権力関係に変動が起こるのを待ち、変動が起きた時に荊州の軍勢を中原へ攻めのぼらせると同時に、将軍(劉備)が自ら益州の軍勢を率いられて関中平野へ出陣されるならば、民衆はこぞって兵糧を用意し、将軍(劉備)のおいでを待つに違いありません

実際に諸葛亮が魏に北伐を行ったのは後漢王朝が滅亡してからですが、この一説は漢王朝が存続している想定で語られている内容です。

特に気になるのが「民衆はこぞって兵糧を用意し、将軍(劉備)のおいでを待つに違いありません。」というところです。

民衆が心良く劉備を出迎えるようなことを諸葛亮は述べています。

私は全ての民衆が劉備を待っているとは思えないのです。

その理由についてですが、魏の曹操の統治が悪いように思えないからです。

劉備のライバルである魏の曹操は三国志演義では悪く描かれていますが、正史での曹操はそこまで悪くはありません。(悪い部分は自身の父と弟を殺された仇のための徐州虐殺ぐらいです)

曹操は統治能力のある才能豊かな政治家です。

秦の始皇帝のような圧政を曹操が敷いていたのなら、民衆は喜んで劉備を出迎えたかもしれません。

この観点が諸葛亮の時勢が読めていない見誤りではないでしょうか。

 

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まとめ

諸葛亮の人を見る目がなかったのかということについて

諸葛亮は人を見る目はあったと思います。

見る目がなかったのは馬謖だけです。劉備に忠告されながらも重用したのは、諸葛亮自身の人物の好みだったのではないでしょうか?

馬謖の兄で白眉と呼ばれる馬良がいます。

馬良は夷陵の戦いで亡くなってしまいます。馬良の実績については分かっていませんが有能な人物とされています。

諸葛亮は馬良と仲が良く、馬良から尊兄と呼ばれていたことから義兄弟ではないのかと考えられています。諸葛亮は馬兄弟に特別な感情があったと思われます。

諸葛亮は馬謖を自身と、どこか似ているものがあると感じていたのかもしれません。

馬謖の才能を愛していて、その才能を伸ばしてやりたい気持ちがあったのではないでしょうか?(あくまで私の個人的な考えです)

つまり、諸葛亮は私情を挟んでいたのかもしれません。

しかし、同情するところもあります。

蜀漢王朝自体が魏王朝と比較しても圧倒的に人材不足でした。その観点で考えてみると馬謖は貴重な人材だったのだと考えられるのです。

力量を積ませた後には自身の後継者にしたい、または自身ばかりが重責を担うことに限界を感じていたのかもしれません。

だから、劉備の忠告を無視してまで重用してしまったのだと思います。

馬謖を見る目が諸葛亮になかったというよりは、馬謖に先行きを多いに期待して私情を挟んでしまったことが原因ではないでしょうか?(あくまで憶測です)

諸葛亮が時勢を読めなかったことついて(天下三分の計を説いている時の見誤り?)

民衆は戦が無くて安定な暮らしが出来ているのなら漢王朝でも魏王朝でもどちらでも良いというのが本音ではないかと思います。

一部の民衆は後漢王朝に失望しています。

黄巾の乱を知っていますか?

黄巾の乱が起こった理由は朝廷内での外戚と宦官による権力争い、霊帝時代の売官制度(金で官職を売る)などの朝廷腐敗に対して蜂起した農民の反乱です。

黄巾党が「蒼天既に死す黄天当に立つべし漢王朝の時代は終わった今こそ我らの時代だというスローガンを掲げたわけです。

つまり、彼ら民衆(黄巾党)は漢王朝に絶縁宣言したのです。

全ての民衆が漢王朝に絶縁したわけではないかもしれませんが今更、廃れた漢王朝で漢の皇統を継ぐ将軍(劉備)を民衆が喜んで迎え入れるかは少し疑問が残ります。

かつて前漢の高祖こと劉邦が沛公と呼ばれていた頃に、秦王朝の首都咸陽に攻め込み秦王朝を滅ぼしました。

この時の民衆は秦王朝の圧政に苦しんでいました。

劉邦は咸陽を制圧してから法律を三章のみとして秦王朝の刑法よりも分かり易い刑法にしたり、秦の厳しい統治制度から解放したことで民衆から喜んで迎えられました。

劉邦の時代と劉備の時代では置かれている状況や背景が違います。

秦の始皇帝のような圧政を曹操が行ったようなことは聞いたことがありません。むしろ曹操は高く評価されています。

魏の曹操が秦の始皇帝のような圧政を行っていないのであれば、いくら劉備が漢王朝の正当性を盾にして制圧しても民衆が心良く喜んで迎え入れてくれるかは微妙な気がするのです。

劉備に天下三分の計を説いている諸葛亮は時勢が読めていなかったのではないか?と個人的に思うのです。

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この記事を書いた人

どうも初めましてマサと申します。岡山県在住の猫好きな50代のオッサンです。よろしくお願いします。
  *星座:牡牛座

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