5月21日放送の大河ドラマ「どうする家康」でお万の方が登場します。
タレントの松井玲奈さんが演じていますね。
お万の方について、どんな生涯を送った人なのか?知っている方もいれば、知らない方もおられると思います。
今回は、結城秀康の母であり、家康の側室?お万の方について紹介します。
お万の方のプロフィール
天文17年)
1548年(・三河国の知立神社(ちりゅうじんじゃ)の社人である永見吉英(ながみ よしひで)の娘として生まれます(*因みに社人とは、やしろに仕える神官のことです)
天正2年)2月8日
1574年(・徳川家康の次男として於義伊(結城秀康)を生みます
慶長6年)7月
1601年(・越前国の北ノ庄城に息子の結城秀康が入城することから共に同行する
慶長12年)4月8日
1607年(・越前国の北ノ庄城にて息子の結城秀康が急死後に出家する
元和5年)
1619年(・北ノ庄にて72歳で死去
おはようございます
— 知立神社【公式】 (@chiryu_jinja) May 14, 2023
本日より花しょうぶまつりが開催されます
(令和5年5月14日〜6月11日)
期間中社務所では、お万の方からの消息の写をはじめ家康知行宛行状など
知立神社所蔵の宝物を展示しております#知立神社 #知立 #神社 #花しょうぶまつり #御朱印 pic.twitter.com/neJpfkBLzf
お万の方の名前は多すぎ?
お万の方には、誕生してから付けられた名前や呼ばれた名前が多いです。
*お万の方の名前
・万
・於古茶(おこちゃ)
・松
・菊子
・於故満
・小督局(こごうのつぼね)
・長勝院(ちょうしょういん)
生涯で7つも名前が変わるとややこしいものに感じそうです。
長勝院(ちょうしょういん)は、息子の秀康が亡くなって出家してからの名だと思われます。
お万の方の素性?
お万の方の父について
お万の方の父は、三河国の知立神社の社人である永見吉英です。
武家の官位を得ていたのかはわかりませんが、通称で志摩守とあります。
永見氏は、元々は古代豪族の物部氏一族の流れで、674年(白鳳2年)に天武天皇の命令で永見貞連が知立神社の神主となっています。
ただ、お万の方が誕生する前の1547年に知立神社の社殿などが焼失、1560年の12歳あたりの頃に桶狭間合戦で織田軍に永見氏の居城である知立城が陥落していることから、父方の家は一時的に没落していた時期があったかもしれません。(憶測です)
因みに、お万の方の生年には諸説があるようです。
お万の方の母について
お万の方の母は、水野忠政の娘であり、家康の母である於大の方の父も水野忠政であるため、お万の方から見て於大の方は、叔母になります。
正室である瀬名の侍女という立場で家康に仕えていますが、家康から見て、お万の方は従妹という間柄になります。
家柄は、悪くない気がしますが何だか冷遇されている感じです。
ただ、一説には微賤の女(ぶせんのむすめ)とも言われている説もあるようです。
因みに微賤の女とは、身分が低く、いやしい身分という意味です。
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お万の方は、家康や正室の瀬名からも冷遇されている?
はっきりとした理由はわかりませんが、お万の方は、家康や正室の瀬名からも冷遇されています。
*家康や正室の瀬名からも冷遇されたと考えられる理由
・正室の瀬名の許可もなしに家康の子を妊娠したこと(側室と認めていない)
・妊娠したことで家康が正室の瀬名を恐れて子どもの認知できなかった
・微賤の女のため?
・生まれた子どもが双子のため、忌み嫌われた(双子説があるようです)
他にもあるかもしれませんが、上記のことが考えられるかと思います。
はっきりはしませんが、特に生まれた子どもが双子なのは、当時として忌み嫌われていましたから家康と瀬名の双方からお万の方は嫌われていたのかもしれません。
しかし、お手付きしたのは家康自身なのですから一番酷いのは家康ですね。
お万の方にしてみれば、憐れなものです。
お万の方の息子(結城秀康)は、城下で生まれている
お万の方の妊娠は、正室の瀬名が認めなかったことから、浜松城から退去させられたと考えられているようです。
その後、徳川家の重臣である本多重次の指図で宇布見村(現在の浜松市 西区の一部地域)の中村家宅で於義伊(結城秀康)が生まれます。
城下で生まれるということは、家康の子として認められないばかりか、家康の側室にも認められないということになります。
そんな弟の於義伊を憐れに思ったのか兄の信康は、於義伊が3歳の頃に父の家康と対面させています。
家康が3歳の於義伊と対面して、どんな思いであったのかはわかりませんが、小説などでは冷たい態度で接しているように描かれているものもあります。
対面しても子として認めていないことや正室の瀬名を恐れて、或るいは遠慮していることから冷たい態度で接していたのかもしれないですね。
因みに余談ですが、家康と正室の瀬名の関係は何となく、次代の将軍である秀忠と正室のお江の関係にも似ているとも言えます。
秀忠には、家光と忠長以外にも幸松(後の保科正之)という男児がいました。
幸松は正室の子ではないことから、秀忠は正室のお江に危害を加えられないかと恐れて隠し子とします。
後に幸松は、保科家の養子として育ちます。
家康と秀忠の状況を見ていると、如何に正室の権限が強かったのかがわかると思います。
お万の方の息子は双子?
双子が当時は忌み嫌われている時代であることは先ほど触れました。
お万の方が生んだ息子は双子であったと言われています。
一人は結城秀康で、もう一人は直ぐに亡くなったようにされているようです。
表向きは亡くなったとして扱い、知立神社の後を継いだようです。
32代目神主となった永見貞愛(ながみ さだちか)がもう一人の息子とされています。
お万の方の父が29代目神主なので、2代後の知立神社を継いだようですね。
正室が亡くなってから於義伊(結城秀康)が家康の子と認められた
1579年に正室の瀬名(築山殿)が亡くなってから、ようやく於義伊(結城秀康)は、家康の子として認められます。
何故、認めたのかはわかりませんが、当時の家康の息子は嫡男の信康を失っていたことから、存在している息子は於義伊(結城秀康)と長松(後の秀忠)の二人しかいない状況でした。
1年後には福松丸(後の松平忠吉)が生まれます。
とにかく、幼い息子しかいないことから、家康は後の後継ぎに不安を覚えたのかもしれません。
晩年は息子と暮らした
1584年の小牧長久手の戦い後に家康と羽柴秀吉は和睦しますが、その条件に人質を送ることになり、11歳の於義伊は人質として秀吉の養子となります。
後に秀吉に後継ぎができたことから、結城家の養子に出されます。
お万の方は、於義伊が人質に出された間は家康の元に留まっていたそうなので息子とは17年間、離れて暮らしていたと思われます。
関ヶ原の戦い(1600年)後に結城秀康は越前国を与えられて、1601年に北ノ庄城へ入ります。
お万の方は、この時に息子の秀康に同行して共に暮らしますが、残念なことに6年後に秀康は亡くなってしまいます。
お万の方は、秀康の死から12年後に北ノ庄にて72歳の生涯を終えます。墓所は孝顕寺に葬られたそうです。
まとめ
結城秀康の母で家康の側室 お万の方についてでした。女性の身ですから、あまり政治的な表舞台にでた人ではないようですね。
見ようによっては家康公の身勝手さに息子と共に振り回されてしまったように見えます。
息子と離れて暮らした期間もあることから、あまり幸福な時期は少なかったのではないでしょうか?
お万の方について気がかりなことが2つあります。
1つ目の気がかりなところは、瀬名の侍女として家康に仕えていた時期の年齢です。
お万の方の生誕は1548年(天文17年)とされていますが、諸説もあることから実際の生誕は、はっきりしないのかもしれません。
生誕が1548年となると息子の秀康の生誕が1574年なので、お万の方が26歳の時に出産したことになります。
現在であれば、普通に適齢期だと思いますが、戦国時代であると少し遅い気がします。
早くても15歳あたりから、20歳あたりではないかと思います。
家康と出会った時の年齢は何歳であったのかはわかりませんが、秀康を出産した年齢を考慮するとお万の方の生誕は1548年ではないかもしれませんね。
2つ目の気がかりなところは、息子の秀康が将軍になれなかったことです。
母親の身分で決まってしまうところが、お万の方にとっては憐れでした。
お万の方の身分は父が知立神社の神主で母が戦国大名の水野氏の一族なので身分は悪くはありません。
しかし、秀忠と忠吉の生母である於愛の方(西郷局)の母方が源氏一族の土岐氏の流れであることから身分が高いとされています。
もし、於愛の方の身分が低ければ、秀吉の人質に出されたのは結城秀康ではなかったかもしれませんし、将軍になれたかもしれません。
秀康が将軍になれていたら、お万の方は将軍の母としての地位を得ていた可能性もあります。
最後は勝手な憶測で記載してしまいました。
記事にお付き合いいただきありがとうございました。