大河ドラマ【光る君へ】でファーストサマーウイカさんが、ききょう/清少納言をじていますね。
吉高由里子さんが演じる まひろ/紫式部に強気な対抗心があるような描かれ方ですが、史実においてはむしろ紫式部のほうが嫉妬していたのではないかと思われる文面もあります。
二人は実際に史実では出会った事もないという従来説もあります。
今回は史実で二人が出会った事がないという可能性や紫式部のほうが嫉妬していたのではないかという事について触れていきます。
史実の二人は出会ったことすらないかも?
清少納言は代表作の「枕草子」で、紫式部は「源氏物語」が特に知られているので歴史教科書で人物くらいはご存知な方が多いと思います。
大河ドラマでは、おそらく ききょう と まひろが出会う描かれ方をされるのだと思われます。
史実では断定はできませんが、清少納言と紫式部が直接に会ったことはあまりなかった可能性があります。
文面でのやりとりはあったかもしれません。
何故、二人があまりあったことがないのかと言うと同時代ではあるのですが、宮中で二人が仕えた人物がお互いに違い、仕えた時期が違うからです。
過去の従来説では、おそらく二人が仕えた時期の違いから面識が無いと見られていたのだと思われます。
二人が仕えた人物は共に一条天皇の中宮(ちゅうぐう)となっています。
清少納言が仕えたのは藤原定子で、紫式部が仕えたのは藤原彰子です。
共に一条天皇の中宮となっていますが、藤原定子は1000年(長保2年)に中宮から立后されて皇后となっています。
藤原彰子も後に皇后、皇太后、太皇太后の位に就いています。
二人が仕えた時期は、、
・清少納言が藤原定子に仕えた時期
(993年~1000年)
・紫式部が藤原彰子に仕えた時期
(1006年頃?〜1012年頃?)
上記を見て分かるように二人が仕えた時期が違います。
清少納言は藤原定子が内親王を出産後に亡くなったことから宮仕えを辞めています。
1000年頃の紫式部は又従兄妹(またいとこ/はとこ)にあたる藤原宣孝と結婚生活を送っていた時期です。
後に夫の宣孝が亡くなり1006年頃には藤原道長の要請で娘の藤原彰子に仕えています。
つまり、清少納言は既に1000年頃には宮中からいないので、従来説では二人は面識はないと思われていました。
ただ、清少納言は再び宮中に戻っていると考えられる文面もあります。
角田文衛は、この使者は、清少納言に、定子の遺児、媄子内親王、脩子内親王の養育を要請したものと推定する。
引用:清少納言 経歴より「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
角田文衛(つのだ ぶんえい)氏とは歴史学者です。
角田氏の見解では清少納言は藤原定子の遺児である媄子内親王と脩子内親王の養育を要請されて宮中に戻って内親王を養育したのではないかと見ています。
宮中に再び戻ったのではないかということで紫式部と会ったとも見れますが、具体的な資料がないことから、宮中に再び戻ったのか?や紫式部と会ったのかはハッキリとしません。
ドラマと史実では正反対?紫式部のほうが嫉妬していた?
ドラマでは、ききょう が まひろに向けて強気な対抗心を見せるような姿勢で描かれていますね。
清少納言と紫式部の二人が実際に面識があったのかは分かりませんが、史実では紫式部が清少納言に対して嫉妬していたような文面があります。
「得意げに真名(漢字)を書き散らしているが、よく見ると間違いも多いし大した事はない」(「清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり」『紫日記』黒川本)、
引用:紫式部 紫式部日記 人物表より 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
「こんな人の行く末にいいことがあるだろうか(いや、ない)」(「そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ」『紫日記』黒川本)
少し分かりづらいかもしれませんが、紫式部が清少納言に対して心よくない感情をもっていたのは感じとれるのではないでしょうか。
清少納言の文面に対して否定的に述べていますし、人の人生の行く末にまで口を挟んでいます。
紫式部もここまで、清少納言を悪く言う必要は無いと思います。
これについては憶測ですが平安時代の貴族らの価値観が影響しているのかもしれません。
この時代の平安貴族は出世することが一つのステータスでしたから、女性の身と言えど一族の社会的地位や権力を欲していたのかもしれません。
清少納言の父である清原元輔(きよはら の もとすけ)の官位は従五位上なので地位としては低いですが少納言の地位からすれば妥当な地位のようです。
紫式部の父である藤原為時の官位は最終的に正五位下となっています。
官位だけで見れば、紫式部の父のほうが上位になるので、紫式部が清少納言を嫉妬する必要などないことになります。
おそらく憶測になりますが、この当時の紫式部の父や一族は清少納言の父の官位よりも低かったか、無官だったのではないでしょうか。
だからこそ、紫式部は清少納言に対して痛烈に嫉妬したのかもしれませんし、見方を変えれば清少納言の才能を認めているからこそ劣等感を抱き、悔しい気持ちの表れだったのかもしれないですね。
この記事はウィキペディア情報を参考にしています。
*参考サイト
・清少納言「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
・紫式部「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
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まとめ(個人的な意見を交えて)
大河ドラマで対抗心を見せる清少納言は史実では正反対で、紫式部のほうが嫉妬していた事についてでした。
今回、二人の出会いの可能性や紫式部のほうが嫉妬していた事について触れてみました。
二人の出会いの可能性については、、
ドラマで対抗心を見せる清少納言は史実では正反対で紫式部のほうが嫉妬していた点については、、
以上がまとめです。
最後に個人的な筆者の意見ですが、歴史学者の角田文衛氏が推定した通り二人は面識があったと思います。
何故そのように思うかについては、二人の代表作が出ている時期や「紫式部日記」で書かれている清少納言に対しての酷評を見て感じました。
どちらの代表作も、いつ頃に出回ったのかはハッキリとしませんが、清少納言の「枕草子」は1000年頃、紫式部の「源氏物語」は1007年頃と見られています。
もし、清少納言が藤原定子の遺児である内親王の二人の養育要請を断って宮中に不在なら「紫式部日記」にあった清少納言に対する痛烈な文面は無かったのではないかと思うのです。
誰も宮中にいない人物を批判する人は、そんなにいないでしょうから、おそらく清少納言は再び宮中に仕えたのだと思われます。
紫式部は先に完成していたと思われる「枕草子」の文面を見て批判していたのではないでしょうか?
一族の官位地位での劣等感も抱きながらの批判だったのかもしれないですね。
以上が、筆者の個人的な意見です。最後まで読んでいただきありがとうございました。