五徳姫というと織田信長の娘で徳川家康の嫡男 信康に幼い頃から嫁いでいることはご存知な方が多いと思います。
現在、大河ドラマ「どうする家康」で五徳姫を女優(俳優)の久保史緒里さんが気位の高い高飛車な感じで演じられていますね。
後に起こる築山殿事件ですが、現在でも詳しい経緯は、はっきりとしていません。
築山殿事件後に姑の築山殿と夫の信康が亡くなり、五徳姫のその後はどうなったか?についての詳細は分からない方が多いのではないでしょうか?
今回は築山殿事件に発展した要因や築山殿事件後の五徳姫のその後について紹介します。
五徳姫のプロフィール(一部)
【💨まもなく #どうする家康】
— 大河ドラマ「どうする家康」 (@nhk_ieyasu) June 18, 2023
瀬名が武田の間者・千代と
密会していることを知った五徳。
信長へ伝えなければならない。
書状を書きつづる彼女の目には…
◆第23回「瀬名、覚醒」
[総合] 午後8:00#五徳 #久保史緒里https://t.co/32mj1aDp5T pic.twitter.com/SkEO6RfER0
永禄2年)11月11日
出生地:尾張国(現在の愛知県西部地域)
夫(配偶者):松平信康
ご両親:織田信長(父)、生駒吉乃(母、諸説あり)
兄弟:織田信忠(兄?)、織田信雄(兄?)、その他異母兄弟
五徳姫の娘:登久姫、国姫(熊姫)
死去日:1636年(寛永13年)2月16日
五徳姫は織田信長の長女として、1559年に誕生します。
母は生駒吉乃とありますが、諸説があるようです。生母が生駒吉乃であれば、信長の嫡男である織田信忠と次兄の織田信雄が同じ生母となります。
織田信長の長女となっているようですが、他に姉の存在もあるらしく、或いは次女になるかもしれません。
1563年の永禄6年3月に徳川家康の嫡男 信康との婚姻が約束されます。
1567年の永禄10年5月に僅か9歳くらいの幼さで松平信康に嫁ぎます。
五徳姫は18歳くらいで、1576年に登久姫、1577年に国姫(熊姫)と娘が続けて誕生します。
築山殿事件が発端した要因?
築山殿事件は織田信長から築山殿と松平信康を処刑するように家康に命じて決断した事件です。
築山殿事件は現在でも詳しい経緯が分かりませんが、発端した要因について考えられるものを紹介します。
五徳姫に関わりのない要因もあります。
五徳姫が父(信長)に姑と夫が武田家と内通していると告げ口した?
五徳姫は姑と夫の関係は良いものではなかったようです。
立て続けに娘を出産していますが、それについて姑の築山殿は男児を生まなかった事に不満でした。
後に築山殿は信康の側室として武田家旧家臣の娘を勝手に側室に迎え入れたようです。
五徳姫は自身が正室ですから、側室を選ぶ権利は自身にあると当然に思ったはずです。
この頃から夫との関係も冷え切っていきます。
信康の性格にも問題があるらしく、五徳姫の侍女・小侍従を断りもなく殺したり、鷹狩の最中に僧侶を殺すなど乱暴な振舞いがあったとも言われています。
築山殿は武田家旧家臣の娘を側室に迎え入れた事や医師と密通しているなどから、五徳姫は武田家と内通しているとして姑と夫を「12ヶ条からなる訴状」を父、信長に送ったとされています。
後に信長から築山殿と信康を処刑するように家康に命じて、家康自身が決断しています。
「三河物語」や「改正改正三河後風土記」などに、この話が記載されているそうですが、どこまで信憑性があるかは分かりません。
五徳姫の12ヶ条からなる訴状については「信長公記」には記載が無いようですね。
家康と息子の信康は不仲だった?
家康と息子の信康は不仲だったのではないか?とも見られている説もあります。
このことが要因で築山殿事件に発展しているとも見られているようです。
信康は優れた武将でしたが度々、親子で意見が衝突することもあることから確執があったのではないかと言われています。
親子関係が悪化したことから、浜松派と岡崎派で派閥ができてしまい統制が取れなくなるのを恐れた家康は五徳姫の12ヶ条からなる訴状を利用して築山殿と信康を亡き者にする口実としたのかもしれません。
この話も信憑性がどこまであるかは分かりません。
ただ、後に家康は言って聞かせる事のできなかった息子の子育ての失敗を教訓に、次に嫡男として育てた秀忠には言って聞かせる事や周囲の者たちの意見に耳を傾ける事の重要性を説いています。
信康が誕生した頃は病弱な子だったため、家康は育ちさえしてくれれば良いと考えて自由気ままに育てたようです。
戦に明け暮れている時期もあったことから、親子として身近にいた期間は短かったため教育を施せずに妻の築山殿に任せっきりな部分もあったかもしれませんね。
後にお互いに浜松城主と岡崎城主となって離れて暮らしていましたから、親子関係に溝が深まったのも防ぎようがなかったとも推測できます。
酒井忠次が五徳姫の12ヶ条の訴状をほぼ認めたから?
五徳姫が父、信長に送り届けたとされる12ヶ条の訴状について、徳川家の重臣である酒井忠次に事実であるかを訪ねたようです。
普通に考えるのであれば、主君の後継ぎである若殿なのですから弁明して救うのが当然であると思われますが、酒井忠次は弁明していません。
それどころか、12ヶ条の訴状の内で10ヶ条を事実と認めているようです。
ここで認めずに弁明していれば築山殿事件に発展することもなかったと思えますが、何故か忠次が認めているところが謎な部分です。
後に家康は嫡男の信康を失う羽目になったことから忠次を恨んだとも言われていますが、その後も忠次を重用していることからして事実は違うのかもしれないですね。
やはり、家康と信康の不仲からの確執から派閥争いを恐れて五徳姫の12ヶ条からなる訴状を利用したのかもしれません。
これは憶測ですが、家康の本心は妻と息子を処刑することを望んでいたのではないでしょうか?
後に家康は天下統一後に亡くなってから東照大権現という神として崇められています。
そんな神君が不仲であった妻と息子を処刑することを望んでいたとなると神のイメージが悪くなりますから、自身が命じた処刑のイメージを少しでも和らげるために家臣(酒井忠次)や五徳姫に罪を擦り付けたのではないかと思えるのです。
築山殿事件後の五徳姫のその後はどうなった?
築山殿事件後の五徳姫のその後についてですが、憶測ながら20年くらいは監視や人質といった窮屈な生き方ではないかと個人的に思います。
1600年以降からの36年間がようやく、落ち着いて暮らせたのではないでしょうか。
五徳姫のその後について年ごとに記載しています。
近江八幡市へ居住(1580年)
五徳姫は夫の信康の死後、岡崎城に半年あたり住んでいたようですが、1580年(天正8年)2月20日に出立して近江へ向かいます。
3日前に家康が会見しているようですが、どんな内容かは分からないようです。
自身が生んだ娘の二人は家康が養育することになります。
近江に着くと八幡市あたりに居住して、近江長命寺に化粧料田を与えられています。
おそらく、父の信長の命令で岡崎を離れたのだと思います。
戦国乱世を生きる姫たちは嫁ぎ先の夫が先立ったり、離縁されたりすると実家に戻されて新たな嫁ぎ先へ再婚することが多いですから、五徳姫もそうであったと考えられます。
しかし、2年後に父の信長は本能寺の変で亡くなってしまいます。
長兄の信忠も亡くなり、五徳姫は次兄の信雄に保護されます。
五徳姫が岡崎を出て信長が亡くなるまでに2年の月日がありますから再婚先などは、直ぐに決まりそうな気もしますが、天下統一に向けての勢力拡大で娘に構ってやれる時間がなかったのかもしれません。
或いは、織田信長の官位が貴族なみに高くなっていることから、官位の低い戦国大名に嫁がせるのは微妙だったとも考えられます。
小牧長久手の戦い後に京の地へ羽柴秀吉の人質に!(1584年)
1584年(天正12年)3月から11月にかけて、織田信雄・徳川家康連合軍と羽柴秀吉軍で小牧長久手の戦いが起こります。
戦いは連合軍側の優勢でしたが、兄の織田信雄は羽柴秀吉の和睦に応じてしまいます。
和睦の条件に五徳姫は秀吉の人質として京都に6年間居住します。
少し不思議に感じられるのが、秀吉が五徳姫に手を出さなかったことです。
秀吉が女性好きであることはご存知の方は多いのではないかと思います。
この時、五徳姫の生誕が1559年で間違いなければ年齢は数え年で26歳です。
当時の元服(成人)は15歳くらいですから、26歳でも若いのではないでしょうか?(現代の感覚で見てですが)
秀吉も年若い娘ばかりでなく、夫に先立たれた妻に手を出している話もあります。
定かではありませんが、宇喜多直家の妻である円融院に手を出しているのではないかという話も聞きます。
円融院は既に30歳を超えていましたから秀吉が年増が嫌いということは無さそうです。
秀吉が五徳姫に手を出さなかったのは、亡き主君の娘だったからかもしれません。
兄の信雄が改易されてから尾張国へ居住(1590年)
1590年(天正18年)兄の信雄が秀吉の命により、改易されたことから五徳姫の利用価値が無くなり京都を出ます。
京都を出てから生駒氏が統治する尾張国小折に移り住んでいます。尾張国小折は母方の実家です。
この地域にどれくらいの期間を過ごしていたのかは分かりませんが、後にまた京都に移り住んでいます。
この当時は秀吉が健在でしたから五徳姫の動向が気になったのかもしれないですね。
例え信雄を改易して人質の利用価値が無くなっても五徳姫が嫁ぐ家によっては旧織田家の反乱分子に成りえると考えていたのではないでしょうか?
秀吉存命中は、五徳姫は常に監視されていたのかもしれないですね。
関ケ原の戦い後は尾張国へ(1600年)、その後は京都で隠棲
1600年に起きた関ケ原の戦い後は尾張国へ居住しています。
五徳姫は関ケ原の戦い後に尾張国 清洲城主になった家康の四男の松平忠吉の世話になります。
松平忠吉から1761石の所領が与えられています。五徳姫から見て、松平忠吉は夫の信康の歳離れた弟なので義理の弟になります。
尾張国にいた期間は分かりませんが、後に京都へ戻り隠棲し、1636年(寛永13年)1月10日に78歳で死去します。
葬られた墓所は京都の大徳寺総見院にあります。こちらの墓所には父の信長の墓所もあります。
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まとめ
築山殿事件後の五徳姫のその後についてでした。築山殿事件に発端した要因にも触れました。
五徳姫は性格については分かりませんが、おそらく、信長に似ていて気位が高いのではないでしょうか?
大河ドラマでも高飛車な感じがよく表現されていますね。その反面、信康の死後の五徳姫を見ていると20年間は身内や元家臣(秀吉)に翻弄されてしまった可哀想な人生に思えます。
築山殿事件の発端は五徳姫の12ヶ条の訴状が要因であるとも考えられますが、「三河物語」などに記載がありながら「信長公記」に記載が無いことから、どこまで信用できるのかが微妙なところです。
もし、家康が信康の死を五徳姫の12ヶ条の訴状と酒井忠次の弁明がなかったのが要因であったならば、二人を酷く恨んだはずです。
後の重臣の酒井忠次を重用したり、五徳姫に義理の弟である松平忠吉が所領を与えていますから、実際には二人は恨まれていないのだと思います。
逆に家康自身が五徳姫に対して負い目があるのではないでしょうか。
五徳姫の12ヶ条の訴状を利用して不仲であった妻と息子を亡き者にして、その罪を家臣の酒井忠次と五徳姫に擦り付けることで払拭したかったのだと思います。
後に神君と崇められるイメージをより良く見せるためだったのではないでしょうか?
学者の方々の中には「三河物語」などの記載は後世の脚色ではないかと考えられているようです。
筆者も家康(神君)を美化するイメージアップのために織田方を悪く見せての脚色ではないかと思っています。
最後に五徳姫が関ヶ原の戦い後の30年以上が唯一、落ち着けたのではないかと思います。
ただ一つ気がかりなのが、信康死後に再婚しなかったことです。
再婚できなかった事については、先ほどに記載した天下統一に向けての勢力拡大で娘に構ってやれる時間がなかった事や信長の官位が貴族なみに高くなっていることから、官位の低い戦国大名に嫁がせるのは微妙だったのではないかという事を記載しています。
父の信長が亡くなる前に2年間もあるので再婚できそうですが、していないところを見るとできない理由が他にあったのかもしれません。
例えば、憶測ですが、信康死後に出家していたのではないでしょうか?
五徳姫が出家したという話は聞いたことがないので分かりませんが、出家していたのであれば再婚しなかったことも納得できそうです。
ただ、憶測でしかありません。