最近では大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長役を柄本佑さんが演じていたり、歴史教科書でも習っていたはずなので、道長についてご存知な方は多いと思います。
そんな道長が二人も存在していることはご存知でしょうか?
存在した時代は違いますが、道長は二人います。今回は二人について簡潔にまとめてみました。
藤原道長は北家と南家に存在する!
藤原道長は北家(ほっけ)と南家(なんけ)に存在しています。
元々の祖先は同じで、飛鳥時代に中大兄皇子(天智天皇)を補佐した中臣鎌足(藤原鎌足)が二人の祖先です。
鎌足の息子に藤原不比等(ふじわら の ふひと)がおり、更に不比等の息子たちに藤原四兄弟がいます。
四兄弟の家は、北家、南家、式家、京家とあります。北家は後に摂関家となっています。
*藤原四兄弟
・藤原武智麻呂(南家)
・藤原房前(北家)
・藤原宇合(式家)
・藤原麻呂(京家)
摂関政治で有名な道長は、北家の藤原房前(ふじわら の ふささき)を祖とする血筋で、更に細かく言うと九条流と言われる藤原師輔(ふじわら の もろすけ)の孫です。
そして、もう一人の道長は南家の藤原武智麻呂(ふじわら の むちまろ)を祖とする血筋です。
更に細かく言うと武智麻呂の四男の乙麻呂流と言われる乙麻呂が曽祖父になります。
二人の道長について簡潔に記載していきます。
北家の藤原道長について
北家の藤原道長は歴史教科書で学んでいるはずなので、説明の必要がないかもしれません。
具体的に摂関政治を行った事はご存知であると思います。簡潔に主な経歴を記載します。
*北家 藤原道長の主な経歴
・兄 道隆の嫡男 伊周との政争に勝利/996年
・4人の娘を入内させる
(彰子 999年/妍子 1010年/威子 1018年/嬉子 1021年)
・摂政に就任する/1016年
・出家後に受戒の儀式を催して法名を得る/1019年
・法成寺の創建/1020年、1022年
上記が北家 藤原道長が主に行った経歴です。
平安時代中期に存在した道長は本来は権力の座に就く人物ではありませんでしたが、二人の兄が早くに亡くなったことで機会が到来します。
亡くなった兄の道隆は嫡男 伊周(これちか)を高位に就けることで権威を高めていましたが、やがて二人は政争を起こして道長が勝利します。
政争勝利後は4人の娘を天皇に嫁がせて権力を握っていきます。
意外な事として、道長は摂政に就任してはいますが、関白に就任したことは一度もありません。
続いて、南家の道長について触れていきます。
北家 藤原道長について興味のある方は、関連記事も読んでみてください。
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南家の藤原道長について
南家の藤原道長は生誕から没年まで不明という人物ですが、存在した時代は平安時代の初期と見られています。
南家の藤原道長の家族構成は次の通りです。
*南家の道長の家族構成
・父、藤原真友
(ふじわら の まとも)
・母、藤原蔵下麻呂の娘
・妻、不明
・息子、藤原諸氏
・娘、藤原小童子
(ふじわら の わらわこ)
※娘は後に仁明天皇に仕えて内親王を生んでいます。
南家の藤原道長は生誕から没年までが不明と先ほど記載しましたが、存在していた家族から道長の生没年を憶測ながら推測してみました。
・父の藤原真友の生没年が742年~797年まで。
・娘の藤原小童子が宮中に仕えていた仁明天皇(にんみょうてんのう)の生没年が810年~850年まで。
そこから推測すると、、
これは、寿命年齢を50歳か60歳で見ての推測です。
また、仁明天皇が833年に天皇に即位していますし、娘の藤原小童子が宮中で天皇に仕えて内親王を生んでいることも考慮しています。(娘がいつ仁明天皇に仕えたかは不明です)
この推測で見ると、南家の藤原真友は797年に亡くなっていますから、息子である道長は晩年に生誕した子供なのかもしれません。
南家の道長の生没年は、あくまでも筆者の憶測です
続いて、南家の藤原道長が当時 何をしたのかについてですが、道長自身の経歴というものは、ほぼ見あたりません。
南家の道長の経歴については、次の一文があります。
『娘・小童子が仁明天皇の宮人となり、重子内親王を産んだ。『六国史』には、本人についての記録はないが、『日本三代実録』に孫・重子内親王の没記事に従五位下と記されている』
引用:藤原道長 (南家) 経歴より「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
分かっている事は、娘の事や孫の重子内親王が道長について触れていることくらいです。
道長の経歴と言えるものは、ほぼ見あたりませんね。
少し不思議に感じるものとしては、娘の藤原小童子が仁明天皇の宮人(きゅうじん)となって重子内親王を出産している点です。
宮人は宮中に奉仕する女性の事を指します。
後に娘が天皇の中宮(ちゅうぐう)や女御(にょうご)の位などに就いていないことから、南家の道長は官位の低い中級か下級貴族の家柄なのかもしれません。
藤原南家は孝謙上皇(女帝)の時代に南家に藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)という一族が絶大な権力を持っていましたが、反乱を起こした事で南家は没落していきます。
南家の道長も、過去の一族の影響で官位が低いのかもしれません。
道長の官位については、菅原道真など何人かが編纂に携わった『日本三代実録』に、孫の重子内親王の事で記されています。
官位は従五位下で、越中権守(えっちゅうごんのかみ)という役職に就いています。
あまり官位と役職も高い地位ではないようですね。
越中権守という役職は越中守(えっちゅうのかみ)の補佐や次官など臨時職とも言えますから、仮の役職という見方もできます。
以上が南家の藤原道長についてです。
この記事はウィキペディア情報を参考にしています。
*参考サイト
・藤原道長 (南家)「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
まとめ
藤原道長が二人存在することについてでした。
北家の道長と南家の道長について、それぞれ記載しました。
平安時代中期に絶大な権力を持っていた北家の道長と比べて、平安時代初期に存在した南家の道長は経歴がほぼハッキリとしないので見劣りしてしまいますね。
何か官位を得た功績の情報でもあれば良かったのですが、無いことが残念です。
今後、情報があれば追記していきます。