徳川家康の側室の中で特に愛されていたとされる於愛の方(西郷局)をご存知な方は多いのではないかと思います。
大河ドラマ「どうする家康」では俳優(女優)の広瀬アリスさんが演じられますから話題に上がりそうです。
江戸幕府2代将軍 徳川秀忠の生母であるわけですが、どんな方で元々の家柄や素性についてはご存知ない方も多いのではないでしょうか?
今回は秀忠の母であり、家康の側室 於愛の方(西郷局)について紹介します。
於愛の方(西郷局)のプロフィール(一部)
天文21年)月日不明?
ご両親:父、戸塚忠春
母、西郷氏(西郷正勝の娘)
義父、服部正尚(簑笠之助正尚)
配偶者:西郷義勝(前夫・1567年〜1571年)
徳川家康(?年~1589年)
子女:徳川秀忠
松平忠吉
西郷勝忠(前夫の子)
西郷義勝の娘(前夫の子、名不明)
死去日:1589年(天正17年)7月1日 38歳で死去
於愛の方は1552年に父、戸塚忠春と母、西郷氏(西郷正勝の娘)の間に誕生します。
母方の三河西郷氏(外祖父・西郷正勝)は名家の家柄だったようです。
しかし、今川義元が駿河と遠江を支配し、三河国に影響力を及ぼしていた頃には三河西郷氏は弱体化していたことから、今川義元の傘下となっていたようです。
幼少時にどのような経緯かは分かりませんが、歳離れた兄の戸塚忠家が討ち死してしまいます。
父、忠春ではなく兄の忠家が亡くなっていることから、既に父は亡くなっているのではないかと思われます。
ただ、諸説によっては、兄の忠家は亡くなっておらず、於愛の方の息子である松平忠吉に仕えているような説もあり、生存していたのか?亡くなっていたのか?が定かでありません。
父と兄の死後は母と共に祖父の西郷正勝に保護されています。
おそらくですが、父と兄の死後は一時的に祖父の西郷正勝に保護された後に母の再婚に伴って再婚先に付いて行ったのだと思います。
母の再婚先の服部正尚は於愛の方の義父となります。
服部家で養育されて、16歳の美しい娘となった於愛の方は1567年(永禄10年)に従兄弟の西郷義勝に嫁ぎます。
西郷義勝との間に一男一女と子どもをもうけますが、1571年の武田軍の侵攻で義勝は命を落としてしまいます。
夫の義勝の死後は、義勝との間に誕生した男児は、まだ幼いことから家督を継げる状態でないためお家存続の危機となります。
家康に出会う前のお家の存続がどうなったのかの経緯ははっきりとしません。
夫の義勝の死後は母の元に身を寄せたという説もあれば、祖父の正勝の子である伯父の西郷清員(さいごう きよかず)を頼ったなどの説もあります。
清員の元で約7年過ごした説もあることから、夫の義勝のお家相続は一族に吸収された可能性もあるかもしれないですね。
後に家康と出会った経緯もはっきりとしません。
岡崎城で出会った?浜松城で出会った?
或るいは、夫の義勝の死後に母の元に身を寄せた屋敷に家康が訪ねた際に出会ったなど様々です。
於愛の方の誕生年には諸説がある?1561年誕生説?
於愛の方は1552年(天文21年)に誕生しているとありますが、1561年(永禄4年)に誕生したとの諸説もあるようです。
ただ、筆者は個人的に1561年(永禄4年)誕生説には無理があると見ています。
もし、1561年(永禄4年)に於愛の方が誕生したとなると西郷義勝(前夫)に嫁いだのが、1567年ですから数え年でわずか7歳ぐらいになります。
政略結婚であれば幼い婚姻くらいはありえます。
しかし、1567年〜1571年のわずか4年の間に一男一女をもうけるのは無理があります。
於愛の方の年齢が10歳にも満たない状況で子どもを誕生させたことになってしまいますから、流石に無理と考えられるので、於愛の方が1561年に誕生したという諸説は個人的には無いと思っています。
於愛の方の呼び名?
於愛の方の呼び名はいくつかあります。いつ頃に呼ばれていたのかは分かりません。
・丁子
(誕生した時の初名は丁子とも、定かでありません)
・於愛
・昧見姫
(家康がくらみひめと呼んでいたそうです)
・西郷局
(子ができてからなのか?家康の指示により西郷局と改めたようです)
於愛の方の母方の家柄(三河西郷氏)について
於愛の方の母方の家柄である三河西郷氏についてですが、今川義元の影響力が強い頃には家柄は弱体化していました。元々、西郷氏は南北朝時代〜室町時代を生きた土岐頼忠(とき よりただ)という武将が先祖であるようです。
更に土岐氏の先祖は、清和源氏頼光流多田源氏の一流とあるので源氏の流れを汲む一族ということになります。
土岐頼忠の息子が西郷頼音であり、この頼音が三河守護代に任じられたことが三河西郷氏の始まりと見られていますが、西郷頼音の娘を娶った娘婿との間にできた西郷稠頼(さいごう つぎより)が西三河の西郷氏の祖となったという説もあります。
要するに於愛の方の母方は、古い系図を辿ると源氏の流れを汲む家柄ということになります。
息子の秀忠が将軍になれたのも母方の血筋が良かった部分も多いにあったと考えられます。
於愛の方の父方の家柄(戸塚氏)について
父と母の婚姻は、おそらく今川家の勧めではないかと思われます。
於愛の方の父方の家柄である戸塚氏についてですが、実のところよく分かっていません。
掛川の地域と戸塚の地域を統治していたのではないかと見られているようですが定かではありません。
戸塚氏は横地氏と勝間田氏の分家ではないか?と考えられています。
戸塚氏についてはよく分からないので、本家筋ではないかと思われる横地氏と勝間田氏の歴史について紹介します。
横地氏について
横地氏は鎌倉時代に成立した歴史書の「吾妻鑑」に横地氏の名が記載されています。
鎌倉時代には御家人として、室町時代には奉公衆として、鎌倉時代や室町時代の幕府(政権)に仕えた名族と記載されています。
時が移り変わり、駿河の守護 今川義忠と遠江の守護 斯波義廉が対立した際に、同族であった勝間田氏と共に斯波氏方について挙兵しましたが、今川義忠との戦いに敗れて城は落城してしまいます。(1476年・文明8年の頃)
横地氏と勝間田氏のお家は滅亡しているようです。清浄寺は菩提寺として伝わっています。
勝間田氏について
勝間田氏の出自には諸説があるようですが、藤原南家の工藤氏の流れを汲む系統説や桓武平氏の流れを汲む平良文(たいらの よしふみ)の系統説があります。
横地氏も同族ともされているようなので、真実であれば公家の藤原南家の工藤氏の血筋、桓武平氏の流れを汲む平良文の血筋かもしれないですね。
源氏と平家が争っていた頃の保元の乱(1156年)に源氏方の源義朝の家人として長く付き従っていたようです。
室町時代では、戦乱が勃発すると幕府方として参戦していたようです。
1476年(文明8年)には同族の横地氏と共に斯波氏方として駿河国の今川義忠に挑みましたが、先ほど記載したように敗れて横地氏と共に滅亡します。
於愛の方の父方の家柄について記載しましたが、勝間田氏と横地氏が分家であるとされる戸塚氏の関わりがはっきりとしません。
戸塚氏が本家筋と繋がりがはっきりしていて公家や天皇家の血筋であれば、名家の家柄と言えそうです。
しかし、戦国時代の頃には父方も母方の家も今川家の影響力で没落したり弱体化しています。
義父、服部正尚(簑笠之助正尚)について
父(戸塚忠春)と兄(戸塚忠家)が亡くなって、母が再婚したことで服部正尚が於愛の方の義父となります。
服部と聞いて気づく方もおられると思いますが伊賀の忍びです。
忍びではありませんが、姓名が同じである服部半蔵とは親族ではないようです。
服部正尚は後に本能寺変後の神君伊賀越えで家康公の危機を救う手助けをしたと伝わっています。
この時に正尚自身が身に付けていた蓑や笠で家康を変装させて無事に領国へ帰国させたようです。
その時の功績として服部正尚から簑笠之助正尚(みのかさのすけ まさたか)と改名したようです。
いつ頃 家康に出会って、家康を支えたのか?
於愛の方がいつ頃、家康に出会ったのかははっきりとしません。
27歳で出会った説が有力ではないかと見られています。
岡崎城で出会ったのか?浜松城で出会ったのか?
夫の義勝の死後に母の元に身を寄せた屋敷を家康が訪ねた際に出会ったのか?詳細は分かりません。
支えた時期についても諸説があって曖昧なところがあります。
家康が戦をしていた時期に支えていたという説もあるようなので紹介します。
1573年)
長篠の戦い、設楽原の戦い(1575年)
高天神城の戦い(1581年)
甲州征伐(1582年)
神君伊賀越え(1582年6月2日、本能寺の変後)
小牧・長久手の戦い(1583年)
第一次上田合戦(1585年)
1573年の武田信玄が侵攻してきた三方ヶ原の戦いから支えていたという説もあるようです。
於愛の方が亡くなるまで家康公は戦い続けていたことになります。
長篠の戦いで勝利しても武田氏の影響力は、まだ残っていることから気も抜けなかったことでしょう。
1579年9月には武田氏と内通した疑いから築山殿事件で正室と嫡男を失いますから家康は辛かったはずです。
そんな家康の辛い時期を於愛の方が支えたのだと思います。
話が少々逸れてしまいましたが、家康公は1560年から1590年までに戦いや領国経営などで、さぞ忙しかったことが予想されます。
そんな中で1579年に三男の秀忠が誕生していることを考慮するとやはり、家康と出会ったのは1578年あたりが妥当だと思います。
27歳で出会ったのが有力視されるとなると支えた時期が三方ヶ原の戦い(1573年)だと、於愛の方の年齢は22歳となるので矛盾します。
更に秀忠が誕生した翌年(1580年)には四男の忠吉が続けて誕生していますから、1573年に家康を支えていたのであれば、早くに子どもが誕生していてもおかしくはないはずです。
なので、於愛の方が家康と出会って側室となったのは1578年あたりと見て間違いないでしょう。
於愛の方の人柄(評判)
於愛の方の人柄についてですが、とても温和で誠実な方でした。
また自身の目の視力が悪く近眼であったことから、視力の悪い女性たちを保護して衣服や飲食を恵むなどしています。
現代で言えば福祉活動のような取り組みをしてます。とても慈愛に満ちた方でもあります。
そんな優しい人柄は家康に深く愛されており、家臣や侍女たちにも慕われていたことから評判の良い方と伝わっているようです。
於愛の方の最後?死因について
於愛の方は1589年(天正17年)5月19日に38歳という若さで死去します。
住み慣れた浜松城から駿府城に移りますが、疲労からか3年後に亡くなります。
死因については家康公を支えていたことからの疲労とも見られていますが、他の要因もあるのではないかとも言われています。2つ紹介します。
築山殿の侍女による毒殺?
築山殿の侍女による毒殺が疑われている説があるようです。
築山殿は元々は今川家の姫であることから気位の高さもあったと思われます。
今川家の人質であった家康を見下していた部分があるようです。
今川義元の命令で家康に嫁いだのが不服だったのかもしれません。
既に夫婦関係は婚姻当初より冷え切っていたと見られます。
桶狭間合戦で家康が今川家から独立した時には両親を失い、実家も失う事にもなり、更に家康公を恨んだかもしれないですね。
築山殿に付き従っている侍女たちも、場合によっては家康が今川家から独立した時に築山殿と同様に身内を失った可能性もあるかもしれません。
それを考慮すると、亡くなった築山殿や身内を失った恨みが於愛の方に向けられたとも考えられます。
側室同士の争いが原因か?毒殺?
家康公には、とにかく側室が多くいました。
数えるだけでも正室を除けば側室だけで18人くらいはいたようです。
戦乱の忙しい時期に側室が18人は多いですね。誕生した子どもたちは19人います。
子どもに恵まれなかった側室もいることから嫉妬心が芽生えたのではないか?
その矛先が後継ぎ候補の息子を持つ於愛の方に向けられていたとも考えられます。
以上が、於愛の方の疲労以外に考えられる他の死因についてです。
あくまで、憶測的な情報なので実際の死因は分かりません。
於愛の方が亡くなった後は、保護されていた目(視力)の悪かった女性たちが連日に渡って、お寺前の門で於愛の方を偲んで後世を祈ったそうです。法名は竜泉院殿となり、後には宝台院殿となっています。
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まとめ
2代将軍 秀忠の母で家康の側室 於愛の方(西郷局)についてでした。
温和で誠実な方で家康公をよく支えていたことが分かります。
於愛の方の最後の死因についてですが、憶測的な情報であることから個人的には従来通りに言われている疲労が死因であると思います。
築山殿の侍女による毒殺説の可能性は無いのではないかと思っています。
根拠はありませんが、元々築山殿と家康の仲が冷え切っていたことを考慮すると、恨みを持っている可能性のある侍女を付近で仕えさせる事など危険ではないかと考えられるからです。
側室同士の争いについても無いのではないかと思います。
これも根拠はありませんが、他家のような身内の後継者争いが徳川家に無かったからです。
息子の結城秀康、徳川秀忠、松平忠吉などは兄弟仲が良かったと言われています。
おそらく、気ままに育てた嫡男であった信康の教育に失敗したからだと思います。
気ままに育ったことで融通が効かなくなった信康は、父の家康と不仲だったのではないかとの説もあるようです。
実際に不仲だったのかは分かりませんが、後に誕生した息子たちにはきちんとした教育を施したのだと思います。
側室同士の仲とは関係は無いですが、兄弟仲の良さから見て側室同士の争いは無いと個人的に見ています。
少々、於愛の方の話とは逸れてしまいましたが、記事にお付き合いいただきありがとうございました。