貞純王后 金氏(チョンスンワンフ・キムシ)は、韓国の歴史ドラマ「イ・サン」の中で悪女な王妃として韓国俳優(女優)のキム・ヨジンさんが演じていますね。
ドラマでは序盤から老論派(ノロンハ)を束ねて牛耳っているように描かれていますが、史実の彼女も権力欲に満ちた悪女だったのでしょうか?
今回はドラマ「イ・サン」の登場人物である貞純王后 金氏のドラマと史実の違い?について紹介します。
貞純王后 金氏(チョンスンワンフ・キムシ)のプロフィール
*貞純王后 金氏のプロフィール
・生年月日:1745年(乾隆10年)11月10日
(西暦 1745年 12月2日)
・氏族:慶州金氏(キョンジュギムシ)
・配偶者:朝鮮王朝 第21代 英祖(ヨンジョ)
・没年:1805年(嘉慶10年)1月12日
(西暦1805年 2月11日)
*貞純王后 金氏の家族構成
・父:金漢耈(キム・ハング)
・母:原豊府夫人(ウォンプンブ プイン)
・兄:金亀柱(キム・ギジュ)
*貞純王后 金氏の存命中の出来事 |
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・1745年/金漢耈の娘として誕生。 |
・1759年/揀択令(カンテクレイ)により朝鮮王朝 第21代 英祖(ヨンジョ)の王妃として迎えられる。(当時、数え年で15歳) |
・1776年/英祖が薨去後したことで正祖即位後に大妃となる。 |
・1800年/純祖(スンジョ)の即位後に垂簾聴政を行う。 |
・1803年/12月頃に垂簾聴政を取りやめる。 |
・1805年/昌徳宮景福殿で死没する。(享年61歳没) |
貞純王后 金氏が王妃になるまでの経緯
貞純王后 金氏は1745年に父の金漢耈(キム・ハング)と母の原豊府夫人(ウォンプンブ プイン)との間に誕生します。
5歳年上に兄の金亀柱(キム・ギジュ)がいます。
貞純王后 金氏の家柄である慶州金氏(キョンジュギムシ)は朝鮮時代の氏族の一つであり、先祖は新羅王とのことで、新羅王族の末裔とされています。
貞純王后 金氏が何故、15歳という若さで英祖(ヨンジョ)の王妃に迎えられたのかというと、英祖が側室から王妃を選ばなかったからです。
英祖には側室が多く存在していましたが、側室から王妃を選ばなかったのは、父王であった19代 粛宗(スクチョン)が生前に禁止令を出していたからです。
英祖は父王の禁止令を忠実に守ったのだと思われます。
この経緯から揀択令(カンテクレイ)によって貞純王后 金氏が王妃に選ばれたのです。
因みに揀択とは、国中の両班家(ヤンバン)の娘から王妃を選び出す行事です。
世子(セジャ)や王が王妃を迎える必要がある時に行われます。
選ばれる娘の年齢が9歳〜15歳あたりだそうなので、貞純王后 金氏が15歳で王妃に迎えられたのは妥当と言えます。
しかし、英祖の年齢は、この時66歳だったので年の差は51歳と差がありました。
おそらく、派閥の政治的意図も絡んでいるとも考えられます。
貞純王后 金氏の年齢は英祖の息子で荘献世子(チャンホンセジャ)から見て10歳年下の義母で、イ・サン(正祖)から見て7歳年上の義理の祖母という微妙な年齢差です。
*貞純王后 金氏が王妃になった頃(1759年)の荘献世子とイ・サンの年齢
・荘献世子(思悼世子/サドセジャ)/25歳
・イ・サン/8歳
王妃になった貞純王后 金氏も年齢については英祖らの家族を見て微妙に感じたかもしれないですね。
ドラマで貞純王后 金氏の役を演じたキム・ヨジンさんは、この当時の年齢が35歳前後だったので流石に10代の役柄は難しかったのではないでしょうか?
後の役柄は年相応になるので良いと思いますが、序盤だけは20歳前後の俳優さんを起用しても良かったのではないかと個人的に思います。
貞純王后 金氏のドラマと史実の違い?
貞純王后 金氏はドラマ「イ・サン」では、序盤から老論派(ノロンハ)を束ねて牛耳っているように描かれていますね。
英祖の前では良い王妃を演じながら、義理の息子である荘献世子の素行の悪さを吹き込み陥れています。
実際に史実はどうであったのかの違いについて紹介します。ただ、史実もはっきり分かっていない部分も多いので、憶測なところもあります。
貞純王后 金氏は、荘献世子の死に関わっていないかも?
王命で荘献世子が米櫃の中に閉じ込められて餓死させられてしまうのはドラマと史実も同じです。
ドラマでは貞純王后 金氏が荘献世子の素行の悪さを英祖に吹き込み陥れていますが、史実は違うかもしれません。
荘献世子が米櫃の中に閉じ込められて餓死させられた頃の貞純王后 金氏の年齢は18歳です。
そんな若い王妃が老論派の党派を率いて主導することはできないと思われます。
荘献世子の死については、父の金漢耈と兄の金亀柱は関わっていた可能性が高いと思われます。
ただ、荘献世子の死に至るまでの経緯は様々にあると言えそうです。
元々1つのきっかけが米櫃で亡くなってしまうことに繋がったのではないかと思えるのです。
その1つのきっかけは、英祖と荘献世子の仲が元々良くなかったのではないかとの一説が囁かれています。
荘献世子の死について考えられる要因を紹介します。
貞純王后 金氏は、荘献世子の死に深くは関わっていないかもしれないです。
英祖と荘献世子の仲が元々良くなかったのかも?
英祖は荘献世子以外の子どもたちは可愛がり、荘献世子のみ冷たく接していたとの説もあるようです。
前王妃である貞聖王后 徐氏(チョンソンワンフ ソシ)が生前の頃は、英祖と荘献世子の仲を取り持っていたようですが、貞聖王后 徐氏の死後5年で米櫃の悲劇が起こってしまいます。
何故、親子関係が悪かったのかは、憶測になりますが、英祖と荘献世子の率いている党派が違っていたのが一番の原因ではないかと考えられます。
英祖は老論派(ノロンハ)で荘献世子は少論派(ソロンハ)です。
親子関係すらも権力闘争になっていたかもしれないですね。
あまりに父の英祖に冷たくあしらわれたことから荘献世子は大きなストレスを抱えていたのかもしれません。
老論派が糸を引いた人物?奴婢?荘献世子の使用人の羅景彦(ナ・ギョンオン)の告発
羅景彦(ナ・ギョンオン)の素性については分りません。奴婢なのか?老論派が糸を引いた人物なのか?
はっきりしていることは、東宮殿で荘献世子の使用人だったことです。
おそらく、老論派が糸を引いた人物であると思われます。
羅景彦が英祖に荘献世子が謀反を計画していると告発したことから米櫃の悲劇に繋がります。
羅景彦の告発の中には都で民を殺害や荘献世子が自身(世子)の側室を殺害したなどの告発があります。
この告発に英祖は激怒して事実であるのかを荘献世子に問いただしますが、許しを請うところを見ると事実のようです。
荘献世子の問題行動は見過ごせないことですが、羅景彦の告発がなければ発覚しないことから老論派が糸を引いたと見るのが妥当と言えそうです。
意外と老論派の金漢耈と金亀柱の親子か洪鳳漢(ホン・ボンハン)と洪麟漢(ホン・イナン)兄弟あたりが関わっていたかもしれないですね。
因みに羅景彦は告発後に王命により処刑されています。
ただ、処刑された説も様々にあり、荘献世子の問題行動を告発した時に英祖が侮辱罪で切り殺した?
イ・サンの母方の祖父である洪鳳漢(ホン・ボンハン)が荘献世子の侮辱罪として処罰するよう英祖に進言したことから王命で処刑された?などがあります。
洪鳳漢の進言は何か老論派が糸を引いていることを隠すための口封じにも思えますね。(憶測です)
英祖の側室 暎嬪李氏(ヨンビン イシ)が息子の死を願った?
暎嬪李氏は英祖の側室で荘献世子の生母です。
英祖と荘献世子の確執から次第に荘献世子は精神的ストレスからか問題行動を起こすようになり、宮中で女官や宦官を暴行し殺害してしまいます。
後に羅景彦の告発から老論派に非難されるようになると、罪が孫のイ・サンにまで及ぶことを恐れて英祖に息子の荘献世子を処罰することで孫を助けてくれるよう懇願します。
罪が孫にまで及ぶことを恐れているのは分りますが、暎嬪李氏は精神的ストレスで壊れていく息子の姿をこれ以上見たくなかったのかもしれないですね。
因みに荘献世子の暴行は宮中の女官や宦官だけでなく、身内にも向けられていました。
暴行を向けられていたのは暎嬪李氏の娘の和緩翁主(ファワンオンジュ)です。
和緩翁主は兄の荘献世子からの暴行に苦しんでいたことから深く怨んでいたようです。
これは憶測ですが、荘献世子が妹の和緩翁主に暴行したのは嫉妬していたのかもしれません。
英祖は荘献世子以外の兄弟を可愛がったとも言われています。
妹は非常に可愛がられたことから、荘献世子は父の愛情を求めていたのではないでしょうか?
和緩翁主がドラマではイ・サンに怨みを持つ政敵のような描かれ方をされているのは、この史実をベースにしているのだと思います。
ただ、ドラマでは何故、兄の荘献世子や甥のイ・サンに心よくない感情や怨みを抱いているのかが具体的に描かれていないのが残念なところです。
以上のことから、貞純王后 金氏が荘献世子の死に関わっていないかも?と思ったのは、他に荘献世子を排除したいと願う人物が多くいたと考えられるからです。
ただ、一番の原因は先ほど記載した英祖と荘献世子の親子仲が悪かったと思われる説と、それぞれが率いている党派(老論派と少論派)が違うことで確執が生じたのだと思います。
息子を冷たくあしらった英祖が一番の原因とも考えられますが、英祖を強く責められない理由もあります。
それは、英祖自身が少論派を心よく思っていない、或いは憎んでいた可能性もあります。
英祖は王位に即位する前に兄の景宗(キョンジョン)の党派と対立しています。
兄の景宗が率いている党派が少論派だったのです。
兄の党派と対立している頃は命を狙われる危険もあったわけです。
そんな少論派を心よく思うはずがありませんし、息子の荘献世子が少論派に肩入れすることに不信感を募らせたかもしれないですね。
*ドラマ |
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・貞純王后 金氏が老論派を主導して荘献世子の素行の悪さを英祖に吹き込み陥れた後は王命により米櫃の中に閉じ込められて餓死させられる。 |
*史実・諸説 |
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・英祖と荘献世子の仲が元々良くなかった説とお互いに率いている党派(老論派と少論派)がちがう。 |
・老論派が糸を引いた人物 羅景彦(ナ・ギョンオン)の告発により米櫃の悲劇が起こる。 |
・英祖の側室 暎嬪李氏(ヨンビン イシ)が息子を処罰することで孫(イ・サン)まで罪が及ばないように英祖に懇願した。(羅景彦の告発により) 和緩翁主も兄の暴行に苦しみ怨みを抱いていた。 |
⁂史実・諸説は上記の3つの要因から王命により米櫃の中に閉じ込められて餓死させられたと考えられます。
史実と諸説は荘献世子を排除したいと願う人物が多くいたと考えられることから、実際の貞純王后 金氏は、荘献世子の死に深くは関わっていない気がします。
イ・サン(正祖)即位後は、史実と同様に大人しくしていた?
貞純王后 金氏は英祖が1776年に薨去して、イ・サン(正祖)が即位した後は大妃となります。
イ・サンが即位して先ず行ったことは父の荘献世子(思悼世子/サドセジャ)を陥れた復讐でした。
この時に粛清されたのは、大叔父の洪麟漢(ホン・イナン)、鄭厚謙(チョン・フギョム)、鄭履煥(チョン・イファン)などが粛清されています。
貞純王后 金氏の兄である金亀柱(キム・ギジュ)は黒山島に流刑とされて1786年に病死したとのことです。
貞純王后 金氏の実家は一時的に没落しています。
おそらく、大妃となった貞純 金氏は内心は穏やかでなかったと思われます。
自身にも罪が及ぶと思っていたのではないでしょうか?
しかし、先代の国母でもある大妃を儒教の教えからなのかイ・サンも罪にできなかったようですね。
イ・サンが薨去するまで、鳴りを潜めるように大人しくしていたようです。
ドラマと違いイ・サンの死後は悪女になった?
イ・サンの死後(薨去)に描かれる貞純王后 金氏はドラマと史実ではあまりに違います。
ドラマでは、イ・サン(正祖)が亡くなるあたりに改心したような描かれ方をしています。
史実は残酷なものです。はっきりしないこともありますが、貞純王后 金氏はイ・サン(正祖)が亡くなる前に毒殺したのではないかとの疑惑があります。
イ・サン(正祖)薨去後に新たな王(イ・サンの息子/純祖・スンジョ)が即位しますが、まだ11歳の少年王であったことから貞純王后 金氏が垂簾聴政(すいれんちょうせい)を行います。
垂簾聴政は王(皇帝)が幼くて政務を行えない時に王に代って王妃(皇后)や大妃(皇太后)が取り仕切る摂政政治です。
残酷なのは貞純王后 金氏は権力を得たことで、イ・サン(正祖)が行ってきた改革を全て潰したことです。
更にイ・サンが重用した臣下や少論派を粛清していきます。
貞純王后 金氏は兄が流刑にされた後に病死したことにイ・サン(正祖)を深く怨んでいたと思われます。
垂簾聴政で権力を得たことで復讐心が一挙に出たのかもしれません。
ただ、貞純王后 金氏が垂簾聴政で権力は得たのですが、実家の勢力は衰えていて、周囲は反時派(シパ)と呼ばれる勢力が拡大していたようなのです。
貞純王后 金氏は、この勢力を抑えることができず彼らの旗頭として利用されていた可能性もあるかもしれないですね。
1803年には垂簾聴政を取りやめています。
1805年には昌徳宮景福殿にて享年61歳で生涯を終えます。
後に権力を得たのは純祖の王妃(純元王后 金氏)である外戚の安東金氏(アントンキムシ)で国政を私物化する勢道政治(せいどうせいじ)が続いていきます。
*ドラマ |
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正祖)が亡くなるあたりに改心したような描かれ方をされている。 | イ・サン(
*史実・諸説 |
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正祖)を毒殺したのではないかとの疑惑説がある。 | イ・サン(
⁂諸説にある貞純王后 金氏によるイ・サン毒殺説は否定的で、近年ではイ・サンは敗血症と脳卒中で死亡したのではないかと見られています。
まとめ
ドラマ「イ・サン」で描かれる貞純王后 金氏のドラマと史実の違いについてでした。
英祖の王妃となってからのドラマでは序盤から悪女に描かれています。
史実の彼女が序盤から悪女であったのかは分かりません。
筆者が個人的に思うのは、荘献世子の死には深く関わっていない気がします。
先ほどにも記載しましたが、他に荘献世子を排除したいと願う人物が多くいたと考えられるからです。
実際に彼女が権力を乱用したのは、イ・サンの死後の僅か5年間だけではないかと思っています。
復讐心からくる一族の怨みは当然あったと思われますが、実家の勢力が衰えて周囲に反時派の勢力が拡大したことで抗えなかったと考えると利用されていただけなのかもしれません。
史実や諸説については憶測のみでしか考えられないので、筆者が個人的に思っていることが事実であれば、彼女の一生は家に振り回され、最後は勢力に抗えなかった可哀想な人だったのではないか?と思ってしまうのです。
結局、イ・サンの死後の僅か5年間だけで、行ったことが悪女だったと思うのです。