先日、偶然YouTube動画を見ていると三国志関連のブログ記事のようなものにたどり着きました。
内容は、三国志の英雄である蜀の劉備の異名について語られていました。
劉備は風貌で耳が大きく福耳であるとか、手が膝まで長いなどの話を聞きますが、それ以外で内容に気になったものがあります。
その中に「泣きの劉備」「先主」「劉皇叔」の以上の三つがあります。
特に「泣きの劉備」と「劉皇叔」が気になります。そのブログでは、考察で語られていたのですが、私自身の見解とは違う感じがしました。
今回は、劉備の異名で「泣きの劉備」「先主」「劉皇叔」の三つについて採り上げます。
ご興味のある方はお付き合いください。
劉備の異名とは?「泣きの劉備 」について
「泣きの劉備 」というのは、泣くというよりは嘆いているのではないかと考えています。
劉備の異名というよりは、自身の不甲斐ない姿を表現しているのだと思います。
三国志の故事の中に「髀肉の嘆」(ひにくのたん)という四字熟語があります。
劉備が客将として荊州の劉表を頼っていた頃のエピソードがあります。
「ある宴席で、劉備が厠に行った後に涙を流して帰ってきた。どうしたのかと劉表が聞くと『私は若い頃から馬の鞍に乗っていたので髀(もも)の肉は全て落ちていました。しかし今、馬に乗らなくなったので髀に肉が付いてしまいました。既に年老いて、何の功業も挙げていないので、それが悲しくなったのです』と答えた」
上記にあるように、劉備は功名を挙げる機会が無く、年老いて時間だけが過ぎていく自身の不甲斐なさを嘆いている様子がよくわかります。
先ほどにも言いましたが、泣くというよりは嘆いていると考えたのは、自身の不甲斐ない感情がつまった「髀肉の嘆」の故事が影響していると思えたからです。
「泣きの劉備 」というのは、「髀肉の嘆」の故事を表現しているのではないかと個人的に思っています。
劉備の異名とは?「先主」という呼び名について
これについては、誰もが知っていると思います。陳寿が著作した正史三国志からきていると考えられます。
三国の中で蜀書について、先主(劉備)と後主(劉禅)の二つの伝記があるので先主伝からきていることは明確だと思います。
劉備の異名とは?劉皇叔という呼び名について
劉皇叔というと誰もが同じ想像をすると思います。「皇帝の叔父さんでしょ!」という想像をする人が大半だと思います。
当時の後漢最後の皇帝は献帝 劉協という人です。三国志演義の影響などで献帝 劉協から、劉備は皇叔扱いされています。
劉備の先祖は、前漢 第6代景帝の子の中山靖王 劉勝の子孫とされていますが、劉備の生きている時代より300年前の人物です。
なので、劉協と親戚と言っても、かなりの遠戚ですので親戚の叔父さんというのも微妙な感じです。
劉備が生きていた時代には、劉備以外の劉氏は多く存在しています。
荊州の劉表、益州の劉璋、幽州の劉虞や同族の劉曄などがいますから、曹操が劉協との引き合わせがあれば、劉氏一族で劉協より年長者であれば誰でも皇叔に成りえたかもしれません。(これは余談です😊)
実際に正史三国志の劉備が劉皇叔と呼ばれていたのかは、私自身も正史三国志に詳しくないのでわかりませんが、ある書物(何の書物であるかを忘れてます😅)に皇叔について記載されたものがあります。
その書物によれば、皇叔とは皇帝の叔父という意味ではなく、一族の一世代前の人物であると記載がありました。
つまり、皇帝よりも一世代前の人物ということになるのだと思います。
ただ、申し訳ありませんが、何の書物であるかがわからないので勝手な見解ですので信憑性は低いと思います。
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まとめ
以上が、劉備の異名とは?の「泣きの劉備」「先主」「劉皇叔」についてです。
「泣きの劉備」はあくまで憶測ですし、「劉皇叔」については、信憑性は微妙です。
ハッキリとしたことではないので不快であれば申し訳ございません。
記事にお付き合いいただきありがとうございました。