飛鳥時代、有力な皇子でありながら「天皇」に即位しなかった人物・高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ)。
しかし、その実像を日本書紀の記述から丁寧に追っていくと、単なる一皇子とは言い切れない存在感が浮かび上がってきます。
壬申の乱での活躍、政治の中枢を担った実績、そして即位に至らなかった不可解な経緯。
こうした点から、「高市皇子は実質的に天皇であったのではないか」という見方は、古くから一部で語られてきました。
さらに、漫画『天上の虹』の描写や、異説や伝承を含んだ史料(たとえば『二中歴』を基にした「暦歴徒然草」など)に目を向けると、史料の行間に隠された もう一つの可能性 が見えてきます。
本記事では、『日本書紀』の記述を軸にしつつ、創作作品や個人研究の視点も交えながら、高市皇子の「天皇説」について、あくまで一つの仮説として丁寧に探っていきます。
1. 高市皇子とは何者か
「高市早苗は高市皇子の末裔」説が流れてきたが高市姓は大和国の郡名に由来し万葉歌人・高市黒人を輩出した天孫系氏族。一方高市皇子の子孫は長屋王の玄孫・峯緒王から高階姓を名乗り高師直も輩出した。峯緒は伊勢権守時代、恬子内親王と在原業平の間に生まれた師尚を高階家の養子に迎えたという説も。 pic.twitter.com/GQ0PKUT9Nq
— 山本直人(日本文学)『亀井勝一郎』ミネルヴァ日本評伝選 (@nahotoyamamoto) October 7, 2025
- 生誕:白雉5年(654年)?
- 別名:後皇子尊
- 官位:太政大臣、浄広壱
- 妻:御名部皇女、但馬皇女?(養女とも?)
- 父母:父―天武天皇
母―宗形徳善娘 尼子娘
(むなかた の とくぜん の むすめ/あまこのいらつめ) - 薨御:持統天皇10年7月10日(696年8月13日)
高市皇子は、飛鳥時代後期に活躍した皇族で、父は第40代天皇である天武天皇です。
母は尼子娘(あまこのいらつめ)で、一般には宗形徳善の娘とされることから出自は宗形氏に属します。
宗形氏は、九州北部(筑前・宗像地域)を本拠とし、宗像三女神を祀る宗像大社の祭祀を担った氏族であったようです。
高市皇子は、天武天皇の皇子の中でも年長に位置すると考えられており、後の政治においても重要な役割を担った人物でした。
天武天皇(大海人皇子)は、兄である天智天皇(中大兄皇子)の死後、皇位継承をめぐって争いを起こします。
これが672年に起きた「壬申の乱」と呼ばれる内乱です。
高市皇子は、この大海人皇子(後の天武天皇)の皇子として、父の政権成立を支えた世代の中核にあたります。
また、天武天皇の死後も、高市皇子は政務の中心に関わるなど、単なる皇子ではなく、実務を担う政治的存在として位置づけられていました。
672年に起こった壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇側)と、近江朝廷(天智天皇の後継勢力)との戦いであり、この戦いにおいて、高市皇子は若年ながら参戦し、軍事面で重要な役割を担ったとされています。
高市皇子の壬申の乱での具体的な役割は以下の通りと考えられています。
・軍の指揮に関与した可能性
・東国方面の兵力動員への関与
・戦局の中で父を支える立場
これらの経緯から単なる従軍ではなく、実戦経験を持つ皇族としての側面があります。
壬申の乱は、天武天皇の政権の正統性を決定づけた戦いです。
その中で活躍した高市皇子は、『政権成立の功労者』『実務と軍事の両面を経験』『天武政権を支える中核人材』という位置にあったと考えられます。
だからこそ後に、これだけの実績を残しながら「なぜこの人物が天皇にならなかったのか?」という疑問が生まれるのです。
2.『日本書紀』における高市皇子の扱い
【高市皇子の主要な実績と経歴年表】
| 年代 | できごと・実績 |
|---|---|
| 654年ごろ | 天武天皇の長男として生まれる。 母は尼子娘。 のちに飛鳥時代の有力皇族となる。 |
| 672年 | 壬申の乱で活躍。 近江大津京を脱出して父・大海人皇子(のちの天武天皇)に合流し、美濃の不破で軍事の全権を委ねられたとされる。 高市皇子の最大の功績といえる。 |
| 679年 | 吉野で天武天皇・皇后・諸皇子らとともに吉野の盟約に参加し、皇族内の結束を誓う。 政治的に重要な立場にあったことがうかがえる。 |
| 685年 | 冠位四十八階の制で浄広弐を授けられる。 皇子の中でも高い地位にあった。 |
| 690年 | 持統天皇の即位後、太政大臣に任命される。 これは天皇・皇太子を除けば、皇族や臣下の中でほぼ最高位で、政権中枢を担った。 |
| 690年10月 | 多くの官人を率いて藤原宮の予定地を視察。 都づくりという国家的事業にも関与した。 |
| 691年 | 封戸を加増され、待遇がさらに厚くなる。 持統朝での重みが増していたことを示す。 |
| 693年 | 浄広壱に昇る。官位面でも最高級の扱いを受ける。 |
| 696年 | 薨去。 死後は柿本人麻呂が『万葉集』に有名な挽歌を残しており、当時きわめて大きな存在だったことがわかる。 |
①『日本書紀』の記述での扱い
日本書紀において、高市皇子は単なる皇子としてではなく、政権中枢を担う人物として繰り返し登場します。
特に注目されるのは、父である天武天皇の死後、そして持統天皇の時代においての記述です。
・政務に深く関与している様子
・朝廷内での発言力の大きさ
・国家運営に関わる中心人物としての扱い
これらから、高市皇子は形式上の地位以上の影響力を持っていたと読み取ることができます。
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② 政治的に重要な役割(太政官的ポジション)
『日本書紀』の記述から浮かび上がる高市皇子の立場は、後世の制度でいう「太政大臣」や「太政官の長」に近い役割としばしば指摘されます。
※当時は後世のような官制は未整備な部分はありますが、、
・政策決定に関与
・他の皇子や臣下を統率
・国家運営の実務を担う
こうした点から、「実質的な政権トップに近い存在」として見ることもできるでしょう。
特に、持統天皇の治世においては、天皇を補佐するというより「政治を主導する側」に近い印象すら受けます。
③ それでも「即位していない」扱い
これは正史である『日本書紀』では高市皇子は臣下のままですから、「即位していない」という扱いは当然です。
しかし、ここで大きな違和感が生じます。
実績と影響力は『日本書紀』に記載がありますが、高市皇子薨御後に柿本人麻呂作の『万葉集』にある「高市皇子尊」や「後皇子尊」と尊称されているのは疑問が残るのです。
里中満智子先生の漫画『天上の虹』でも、この尊称は“少しやりすぎでは’’と記載があります。
日本書紀には、高市皇子は臣下のままですから、『即位記事が存在しない』『在位期間の記録がない』『天皇としての諡号もない』など、これらの記録が無いのは当然です。
万葉集の「後皇子尊」の尊称については次に後述します。
3. なぜ「天皇説」が生まれるのか

なぜ「天皇説」が生まれるのかについて、以下の通りで進めます。
①実質的な政権運営
②他の皇子との比較
③即位していてもおかしくない条件
④万葉集や木簡に見える高市皇子天皇説
⑤『天上の虹』に見る皇位の正統性について
①実質的な政権運営
くどいようですが、まず大きな要因として挙げられるのが、高市皇子が担っていた実務上の政治的役割です。
『日本書紀』の記述での扱い・政治的に重要な役割(太政官的ポジション)でも記載してますが、形式上は天皇でなくとも、実質的には政権の中心にいた可能性があります。
これが「実質的な天皇ではないか?」という見方の出発点となります。
②他の皇子との比較
次に重要なのは、他の皇子との位置づけです。
草壁皇子や大津皇子など、同時代の皇子たちと比べると、『軍事(壬申の乱)』や『政治(政務への関与)』の両面において、高市皇子の存在感は際立っています。
長兄という立場に加え、壬申の乱における軍事的功績や政治的実績を踏まえれば、当時の皇子の中でも有力な皇位継承候補の一人であったと考えるのが妥当ではないでしょうか。
③即位していてもおかしくない条件
さらに、高市皇子は、、
・天武天皇の皇子であること
・壬申の乱における功績
・政治的実績
といった点から、即位資格としての条件を十分に満たしていたと見ることもできるでしょう。
にもかかわらず、即位していないという事実は、逆に「なぜか記録されていないのではないか?」という疑問を生まれるわけです。
④万葉集や木簡に見える高市皇子天皇説
柿本人麻呂作の万葉集には、高市皇子への挽歌に『高市皇子尊』や『後皇子尊』と記載があるのは先ほども述べています。
万葉集には、『わご大王皇子(わが おおきみ みこ)』や『御門(みかど)』と記載があり、大王や御門は天皇のことを指すはずですから、天皇ではないか?という見方もできるでしょう。
また、長屋王(高市皇子の長男)の邸宅跡から出土した木簡には「長屋親王宮鮑大贄十編」とあり、親王ということから高市皇子は天皇に即位していたのではないかという疑問が出るわけです。
この親王については、長屋親王の妃である吉備内親王の母親が元明天皇(阿閇皇女・草壁皇太子の妃)であることから特別に親王扱いされたのではないかという見方もあります。
長屋王邸宅では親王と私称し、公の場では用いていないという指摘もあるようですが、具体的なことは不明です。
因みに、長屋親王の母親(御名部皇女/みなべのひめみこ)と吉備内親王の母親(阿閇皇女/あへのひめみこ)は同母(姪娘/めいのいらつめ)の姉妹なので、お互いに親密な関係なら特別な扱いを受けた可能性はあるかもしれません。
⑤『天上の虹』に見る皇位の正統性について
天上の虹では、高市皇子は重要な政治的存在として描かれ、皇位継承をめぐる力関係や正統性についても一つの解釈が提示されています。
もちろん漫画は史実そのものではありませんが、一つの解釈に『皇族を母に持たない皇子は天皇に即位できない』というルールが設けられているのです。
しかし、古代において天上の虹での『皇族を母に持たない皇子は天皇に即位できない』というルールは制度として存在した事実はありません。
それは古代皇族の婚姻を見れば明らかです。
厩戸皇子(聖徳太子とされる人物)の父である用明天皇の母親は有力豪族の蘇我堅塩媛(そが の きたしひめ)、妹の推古天皇(炊屋姫/かしきやひめ)も同じ母親です。
暗殺された崇峻天皇(すしゅんてんのう)の母親も小姉君(おあねのきみ)という蘇我稲目の娘ですから、必ずしも天皇に即位するために母親が皇族である必要はありません。
この経緯から、天皇になるためには母が皇族 か 中央最有力氏族の方が圧倒的に有利という見方ができるのです。
では、なぜ『天上の虹』ではこのようなルールが設けられているのかという点については明確ではありませんが、当時の複雑な皇位継承事情を分かりやすく整理するために単純化された表現であり、同時に「母系の血統の重要性」を強調するという、里中満智子先生の独自の視点が反映されたものと考えられます。
『天上の虹』での皇位の正統性(皇族を母に持つ男系皇子)は、舒明天皇から文武天皇までを指しているのかもしれません。
【舒明天皇から文武天皇までの皇位】
・舒明天皇(第34代)
・孝徳天皇(第36代)
・皇極・斉明天皇(第35代・第37代)
・天智天皇(第38代)
・天武天皇(第40代)
・文武天皇(第42代)
上記は両親が共に皇族です。
大友皇子(明治時代に第39代 弘文天皇と追贈)や第41代 持統天皇(鸕野讃良皇女)の母親は豪族の娘なので除外してます。
男系の女性天皇(父が男系の天皇)は男性皇子が天皇になるよりも、条件が楽と言えるかもしれません。
在位している天皇の皇后に成りさえすれば、天皇亡き後 中継ぎとして即位できます。(※中継ぎとしての天皇即位は聖武天皇の妃である藤原光明子以降は別です)
※藤原光明子以降は皇族でない有力氏族の女性でも皇后になれる道が開かれました。
この他、文武天皇以後は母親の元明天皇(阿閇皇女)、姉の元正天皇(氷高皇女)などは例外的な即位をしているので、それについては後に後述します。
4.『天上の虹』における高市皇子像
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①天上の虹での高市皇子の描かれ方
天上の虹における高市皇子は、正史の枠を踏まえつつも、里中満智子先生独自の解釈によって、非常に存在感の大きい人物として描かれています。
単なる一皇子ではなく、「もう一人の天皇になり得たかもしれない人物」という重みが強調されているのが特徴です。
壬申の乱では英雄としての圧倒的存在感があります。
大海人皇子(後の天武天皇)を支える軍事的リーダーであり、冷静な戦略家でありながら、現場で指揮を執る実務型の英雄とも言えるでしょう。
兄弟・皇子たちの中でも「実戦で国家を動かした人物」として突出しているのです。
正統な皇太子である弟の草壁皇子や実力のある大津皇子に対しても比較され、周囲からも次代の天皇に相応しいとされています。
彼はそんな中、表立って争うことをせず、自らは「支える側」に回り、国家の安定を優先するのです。
高市皇子は単なる武将ではなく、「国家を成立させた功労者」という格で描かれています。
作中で特に印象的なのは、本人も政治的責任を強く自覚していますが、政治体制の葛藤がありつつも 十市皇女への生涯変わらぬ思慕を抱いているところは見どころの一つです。
持統天皇(鵜野讃良皇女)とは、政治において互いに能力を認め合う関係であり、天武天皇亡き後は絶大な信頼を寄せています。
しかし、太政大臣という重要な役職を与えられそうになった時には皇位継承めぐる地位であることから、緊張感が走ります。
持統天皇を信じてはいるが、内面では大友皇子との内乱(壬申の乱)もあったことで、高市皇子自身も除害されるのではないかという恐れを抱いていたのです。
結果的には、高市皇子は「対抗勢力になり得るが、ならない人物」として描かれ、持統天皇の政権運営を支える構図になります。
②正史との違い
『天上の虹』における高市皇子は、正史『日本書紀』などに記された断片的な記録に対し、里中満智子先生が「一人の男としての葛藤」という強烈な光を当てて造形したキャラクターです。
正史と漫画の決定的な違いは、主に「情愛の物語」と「政治的立ち位置の解釈」にあると言えるかもしれません。
1. 「十市皇女への恋」という創作
正史において、高市皇子と十市皇女(天智天皇の娘・大友皇子の正妃)が恋仲であったという明確な記録はありません。
- 正史の事実: 高市にとって十市皇女は「異母姉」にあたります。彼女が亡くなった際、高市が万葉集に「哀しみ・喪失」という内容の挽歌を詠んだようですが、それが男女の愛だったのか、親族としての情だったのかは不明です。
- 漫画版の解釈: 里中先生は、この挽歌を「命がけの不倫の恋」の証としてドラマチックに描いているようにも感じます。敵対する大友皇子の妻(十市皇女)を愛し抜くという設定により、高市は「野心家」ではなく「情熱を秘めた悲劇の男」としての性格を決定づけているようにも見えるのです。
※漫画では二人は幼き頃から両想いに描かれています
2. 「皇位への野心」の有無
歴史学者の間では、高市皇子はその圧倒的な功績から「本当は天皇になりたかった(あるいは周囲が望んでいた)のではないか」という議論が絶えません。
- 正史の背景: 壬申の乱の英雄であり、太政大臣として実質的な政権トップに君臨しました。彼の死後、息子の長屋王が悲劇的な最期を遂げるのも、高市系の血筋が天皇家に匹敵する力を持っていたためです。
- 漫画版の解釈: 里中先生は、高市を「権力欲が皆無な人物」として描いたように見えます。彼は自分の即位よりも、愛した女性(十市など)や、父・天武天皇が望んだ「律令国家の完成」を鸕野讃良皇女と共に優先します。この「無欲の献身」が、読者の目にはかえって高潔で魅力的に映るのです。
※漫画版の解釈では『皇族を母に持たない皇子は天皇に即位できない』という設定を強調しています
3. 持統天皇(讚良)との「同志関係」
正史では、持統天皇にとって高市皇子は「自分の息子(草壁皇子)の地位を脅かしかねない強力なライバル」という側面が強かったはずです。
- 正史の緊張感: 草壁皇子の死後、高市が即位しなかったのは、持統天皇による強い抑え込みがあったからだという説が有力です。
- 漫画版の解釈: 二人は対立関係ではなく、太政大臣就任前の政治的意図の緊張感を除けば、「亡き天武天皇が望む国家完成の同志」として描かれます。高市は讚良の苦悩を誰よりも理解し、彼女が孫(文武天皇)へ皇位を繋ぐための「重し」としての役割を自ら引き受けます。
③漫画の高市皇子は何故そのように描かれたのか
『天上の虹』はあくまで持統天皇が主人公です。
彼女は「天武天皇の理想を継ぐ」という大義のために、息子や政敵を次々と失い、孤独な頂に立ちます。
推測ですが、高市皇子があのように描かれた理由は以下のことが考えられるのではないでしょうか?
・正統性のテーマ
・史料の空白
・持統天皇との関係
・ドラマ性
・古代的価値観
・万葉集に見える高く評価された人物像
唯一、彼女(持統天皇)と同じ高さの視線で政治を語り、かつ「身内(天武の息子)」として支えてくれる高市皇子は、主人公の孤独を唯一分かち合える存在である必要があったのかもしれません。
万葉集が示す「異様に高い評価」を、物語として最大限に膨らませた結果が、『天上の虹』での高市皇子像になったと言えるのではないでしょうか?
5.『二中歴』の「暦歴徒然草」に見える異説
『二中歴』は、鎌倉時代初期〜中期ごろに成立したと考えられている書物で、いわば中世の「百科事典」のような存在です。
もともとは平安時代末期の『掌中歴』や『懐中歴』といった資料をもとにまとめられたとされ、神代から人の時代の歴史をはじめ、官職や医療、暦など、当時の知識人が実際に役立てていたさまざまな情報がぎゅっと詰め込まれています。
一言でいえば、「昔の人のための便利な知識ハンドブック」といったイメージの書物です。
「暦歴徒然草」というサイトに『二中歴・人代歴』の伝承を含んだ資料が紹介されています。
正史とは異なりますが、高市皇子に関する面白い記載があるのです。
この「暦歴徒然草」の高市皇子に関する記載ついて簡単に記載しておきます。
暦歴徒然草では、高市皇子が天皇に即位し、持統天皇になったとされています。
つまり、鸕野讃良皇女は天武天皇の皇后であることは間違いありませんが、後に中継ぎとして天皇に即位していないという流れになっているのです。
「持統」は太子を指すとのことで、男性皇子とされています。
さらに驚くべきことは、高市皇子の正妃が阿閇皇女(後の元明天皇)となっているのです。
正史での阿閇皇女の夫は、皇太子の草壁皇子、正史での高市皇子の正妃は御名部皇女とされています。
この経緯に沿えば草壁皇子の妃は誰で どのような扱いかは不明です。
暦歴徒然草の流れに沿えば、御名部皇女と阿閇皇女の姉妹は高市皇子に嫁いでいることになるかと思われます。
つまり、この経緯に沿えば高市皇子は持統天皇となり、696年8月に崩御し、1年後の697年8月に息子の軽皇子が文武天皇として即位したという流れになるでしょう。
正史で天武天皇が崩御したのは686年10月で、2年後の688年11月に大内陵に葬ったとありますから、「暦歴徒然草」に沿えば、688年前後あたりに高市皇子は即位したという流れかもしれません。
さらに息子の長屋王の邸宅跡から出土した木簡の「長屋親王」の記載からも「暦歴徒然草」では、高市皇子を天皇として見られているようです。
*「正史」と「暦歴徒然草」から見る草壁皇子や高市皇子の家族構成*
【正史・草壁皇子の家族構成】
(親世代)
・草壁皇子 ―・阿閇皇女
||
軽皇子・氷高皇女・吉備内親王
(子世代)
【正史・高市皇子の家族構成】
(親世代)
・高市皇子 ―・御名部皇女
||
・長屋王
(子世代)
【暦歴徒然草の異説での家族構成】
(親世代)
・阿閇皇女 ―・高市皇子 ―・御名部皇女
|| ||
・氷高皇女 ・長屋王
・軽皇子
・吉備内親王
(子世代)
正史での長屋王は、吉備内親王を妃としているので「暦歴徒然草」に沿えば、父は共に高市皇子となり 異母兄弟での婚姻、母はお互いに姉妹ですから従姉妹同士の婚姻ということにもなります。
また、「暦歴徒然草」に沿うと長屋王と軽皇子(後の文武天皇)は兄弟となります。
長屋王の生誕は676年説と684年説とありますが、軽皇子(683年生誕)が即位したとすると、長屋王は1つ年下の弟という扱いになるかと思うのです。
※あくまでも異説ですので正史とは異なります。
6.「暦歴徒然草」に見る異説からの私的仮説
先ほどの「暦歴徒然草」から、『日本書紀』と『天上の虹』の設定などを参考に個人的な仮説を立ててみました。
「暦歴徒然草」では鸕野讃良皇女は天皇に即位せず、高市皇子が即位し、彼が持統天皇という扱いです。
この経緯を踏まえ、考え得る可能性を4点挙げてみます。
※本稿の内容は、「暦歴徒然草」や『日本書紀』および『天上の虹』の描写等を参考にした筆者の私的仮説であり、史実として確定されたものではありません。
① 高市皇子は当初から皇太子だった可能性
『暦歴徒然草』では『天武太子』という記載から、高市皇子が当初より皇太子であった可能性が指摘されています。
正史に基づけば、皇太子・天皇となるには、母が皇族女性または中央有力氏族の出身であることが重要な要件とされます。
正史では高市皇子の母親は尼子娘(あまこのいらつめ)であり、実家は福岡県の地方豪族 宗形氏(むなかたし)です。
漫画『天上の虹』での宗形氏は身分の低い豪族という扱いに見受けられますが、実際には中央勢力ではないにせよ、地方では九州地方における有力豪族層であると考えられます。
宗形氏は、天武政権にとって無視できない存在であったと考えられますが、直接的な軍事支援の記録は乏しいものの、政治的・宗教的な面で一定の協調関係にあった可能性は十分に想定できるでしょう。
しかし、正史での高市皇子は母親の血統で見ると草壁皇子や大津皇子とは差があります。
草壁皇子と大津皇子の母親は姉妹(大田皇女・鸕野讚良)であり、その実家は有力豪族の蘇我氏ですし、姉妹はどちらも天智天皇の血筋です。
仮に高市皇子が血統で競うとすれば、母親の血統が皇族の女性でないと見劣りします。
そこで、高市皇子は当初から皇太子だったのではないかとの可能性から母親の血統が皇族ではないかと私的な仮説を立ててみました。
この仮説であれば高市皇子が皇太子や天皇に成れる可能性はありそうですが、それでも血統としては草壁皇子と大津皇子の母親には見劣りしそうです。
全く根拠の無い憶測になりますが、高市皇子の母親が女性皇族だった場合での記載は後の「7. 高市皇子は本当に天皇だったのか?可能性を探る」で後述します。
② 阿閇皇女の立場変更がもたらす整合性
阿閇皇女は、息子である軽皇子(文武天皇)が25歳の若さで崩御した後に元明天皇として即位するのですが、正史の経緯を辿ると不都合なことに気づくのです。
軽皇子が文武天皇として即位した時に阿閇皇女は、「皇太妃」となります。
つまり、阿閇皇女は「皇太妃」というよりは「皇太子妃のまま」というのが正しいと言えるかもしれません。
正史では「皇太妃」から阿閇皇女は天皇に即位したということになりますが、本来は「皇太子妃」で、「皇后」にも成っていない経緯で即位したということになります。
通常は皇后になった後に、何かしらの事情から中継ぎとして天皇に即位するのが慣例でした。
もう一つの例外は、阿閇皇女の娘である氷高皇女が皇后でもない経緯で元正天皇として即位したことです。
母の阿閇皇女(元明天皇)が即位したことで、娘の氷高皇女が皇太子でもない経緯で即位したことは極めて珍しいと言えます。
娘の氷高皇女が甥の首親王(おびとしんのう/後の聖武天皇)の成長するまでの中継ぎとして即位するわけですが、筆者は、これらの経緯を不都合に感じたのです。
ただ、先ほどの「暦歴徒然草」の経緯であれば都合が良くなります。
高市皇子が持統天皇として即位したという仮説ですから、その妃である阿閇皇女は自然と皇后になったという見方ができるでしょう。
この経緯であれば、何の障害も無く、息子である軽皇子(文武天皇)の崩御後に阿閇皇女は即位できますが、娘の娘の氷高皇女だけは正史と同様です。
※あくまでも筆者の私的な仮説です。
③ 大津皇子事件から見る権力構造と高市皇子の立ち位置
「暦歴徒然草」に見る異説からは少し外れる部分もありますが、天武天皇崩御後の大津皇子事件においての経緯と高市皇子の立ち位置について私的な仮説を立ててみました。
-1-「大津皇子の謀反」は事実だったのか?
旧暦の686年10月1日に天武天皇が崩御し、その後は皇后の鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)が政務を主導しました。
続いて同年10月2日に、大津皇子の謀反が発覚したと『日本書紀』に記され、翌10月3日には大津皇子は死に追いやられます。
現代の考察によると、「大津皇子の謀反」の可能性は低いと見るのが一般的のようです。
日本書紀において、次の点が不自然とされます。
・逮捕から処刑までが極めて迅速(ほぼ即日)
・具体的な計画や共犯者の記述が曖昧
・証拠や取り調べの過程がほぼ描かれていない
親友であった川島皇子が皇后の鸕野讃良皇女(後の持統天皇)に謀反を密告したと伝えられているそうですが、『日本書紀』には密告者としての川島皇子の名が無く、後の褒賞を与えられた形跡もないことで、事実かが疑われています。
つまりこれは「謀反があったから処刑された」ではなく、「処刑するために謀反とされた」という解釈もできるのではないでしょうか?
大津皇子は排除された理由について明確ではありませんが、これは『天上の虹』にも描かれているように、両親の正統な血統や文武両道で周囲の期待も高いことから「即位してもおかしくない人物」だったと見ることもできます。
皇太子である草壁皇子の地位を脅かす存在とも見られて排除されたのかもしれません。
-2- 政治か、恋か、二人の争いを読み解く二つの視点
これは、あくまでも可能性ですが 政治勢力の違いと恋愛要因が重なっているのではないでしょうか。
天武政権内部には複数の支持基盤があったとされ、草壁皇子は「皇后系・中枢貴族」、大津皇子は「若手・実務・武人的」という『路線の違い』が可能性としてあるかもしれません。
また、万葉集には草壁皇子が石川郎女に贈った歌があり、大津皇子も石川郎女との相聞歌があることから、一人の女性をめぐる関係性が存在していた可能性も考えられます。
ただ、石川郎女が草壁皇子と大津皇子が愛する女性が同一人物であるかは不明です。
草壁皇子の石川郎女に贈った歌には「大名児(おおなこ)」という名前が見られますが、大津皇子の相聞歌には相手の名前が不明ですので、お互いが思慕している女性ではないかもしれません。
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-3- 高市皇子の立ち位置
高市皇子は、この大津皇子事件において「勝者側にいながら、主役ではない」極めて特殊な立場にいます。
壬申の乱で軍事的に大活躍し、政治能力も高いにもかかわらず、後継レースでは『草壁皇子 > 大津皇子 > 高市皇子(?)』という微妙な位置です。
つまり、「皇太子だった可能性」でも触れていますが、実務はトップでも、血統順位では劣るということになります。
高市皇子は、当時の政権中枢にいたはずですから、軍事・警察力を握っていた可能性もあるかもしれません。
それを考慮すると、少なくとも黙認、あるいは実務的関与の可能性は否定できないでしょう。
あくまでも推測ですが、大津皇子が消えたことで草壁皇子の安全は確保されます。
しかし草壁皇子は早世し、結果として高市皇子が政権中枢の実力者として浮上するのです。
結果的には高市皇子は得をした人物と言えますが、天皇には即位せず、補佐役に徹します。
正史では体制維持を優先した現実主義者と言えるでしょう。
ただ、「暦歴徒然草」での視点だと、見方は変わります。
「暦歴徒然草」では高市皇子は皇太子だった可能性がありますから、「大津皇子の謀反」が事実であれば、これは弟が父の天武天皇の意思や兄(高市皇子)に対して、謀反したということになるでしょう。
先ほどの「政治か、恋か、二人の争いを読み解く二つの視点」から見た大津皇子は草壁皇子に政治的意図と恋愛要因で争っていたと仮定していますが、高市皇子が皇太子だった場合は、これは大津皇子と草壁皇子は恋愛要因だけで争っていたことなります。
高市皇子は何ら手を出すことなく中立を保ちつつ、大津皇子の排除と草壁皇子の早世(早世は偶然?)という展開を待つ立場にあった、という筋書きも一つの仮説として考えられるのではないでしょうか?
※ここでの本記事における高市皇子の立場については、『暦歴徒然草』などの記述を参考にしつつ、筆者の私的な仮説を含んでいます。
④ 吉野行幸の謎と政治状況の可能性
吉野行幸の謎というのは、正史『日本書紀』にある持統天皇(ここでは鸕野讃良皇女)が、在位してからの吉野に31回も行幸することについてです。
いくら夫の天武天皇の聖地と言えど、在位してからの吉野に31回も行幸するのは不自然ではないでしょうか?
この吉野行幸については、専門家の間でも「温泉療養説」や「王権祭祀説」などがあります。
温泉療養にしても吉野に31回も行幸というのは、やはり不自然ではないでしょうか?
この他には、吉野に31回という不自然さから政治的意図で拠点にしていたのではないかとも見られています。
筆者も拠点にしていたと見るほうが妥当に感じるのです。
南北朝時代にも後醍醐天皇が吉野を拠点に南朝政権(吉野朝廷)を樹立していますので、持統天皇(鸕野讃良皇女)も拠点にしていた可能性も考えられのではないでしょうか?
「暦歴徒然草」に見る異説からは少し外れますが、持統天皇(鸕野讃良皇女)も拠点にしていた可能性を交えて、二つの私的な仮説を立ててみました。
-1- 大津皇子皇太子説から見る政権分裂の仮説
漫画『天上の虹』では、天武天皇が崩御前に草壁皇子を廃し、大津皇子を皇太子に据えようとする意図が描かれています。
しかし、皇后に その旨を伝えることなく崩御し、やむなく大津皇子は霊前に偲び事を述べると同時に自身を正統な後継者と宣言し、謀反とされて捕らえられてしまうのです。
正史を見ても違和感がありますが、天武天皇崩御後(686年10月)に大津皇子事件となり、逮捕から処刑までの流れは同じです。
ここでは正史と「暦歴徒然草」の異説なども交えつつ、私的な仮説ではありますが 大津皇子を皇太子としています。
正史上、母である大田皇女が存命であれば天武天皇の正妃となった可能性もあり、その場合、大津皇子にも皇太子となる道があった可能性が考えられるのです。
大津皇子が薨去後に南北朝時代のように政権が二分された状況で仮説を立ててみました。
大津皇子が当初から皇太子であった場合は、彼を支持する賛同者は多くいたと見るべきでしょう。
ここで一つの仮説として、皇后である鸕野讃良皇女が息子の草壁皇子を皇位に就けるために動き、その過程で大津皇子が何らかの罪で追及され、自害に至ったと仮定します。
正統なる後継者を自害に追い込んだとすれば、大津皇子を支持する賛同者は当然 憤るはずです。
そこで母系の血筋では劣りますが、実力や実績もトップであり、周囲からも期待の高い高市皇子が政権を担おうとしますが、皇后(鸕野讃良皇女)が立ちはだかり対立します。
ここからは内乱が起こり、飛鳥での政局で分が悪くなった皇后(鸕野讃良皇女)は吉野に拠点に移し、政権が二分され、膠着状態になるのです。
政権が二分されてから周囲から皇位を望まれて、「暦歴徒然草」の異説にあるように高市皇子は天皇に即位したとします。
膠着状態から3年後の689年5月に草壁皇子が正史にあるように薨御し、皇后(鸕野讃良皇女)は690年2月に即位し天皇となります。
つまり、一時的に二人の天皇が存在したことになるのです。
飛鳥と吉野での膠着状態は続きますが、6年後の696年8月に天皇に即位していた高市皇子が崩御し、この死をきっかけに、並び立っていた権力はやがて一つにまとまり、政権は再び統合されていきます。(※鸕野讃良皇女の勝利で政権分裂終焉)
その後、持統天皇(ここでは鸕野讃良皇女)が697年に譲位し、孫の軽皇子が文武天皇として即位します。
こうした流れの中で、吉野を拠点とした政権という仮説も、ここで一つの区切りを終焉として迎えるのです。
※本記事における大津皇子皇太子説を起点とした政権分裂の見方は、『暦歴徒然草』などの記述を参考にしつつ構成した筆者の私的仮説です。なおここでの本仮説では、高市皇子については異説を採り天皇として位置づける一方、鸕野讃良皇女については正史をもとに持統天皇として扱っています。
正史での高市皇子の死因についてですが、具体的なことは不明です。
漫画『天上の虹』では毒殺を思わせる描写が見られますが、正史では43歳前後で没したとされており、当時としては特段不自然な年齢とは言えません。
*仮説ベースの年表・出来事まとめ*
※以下は正史・異説・創作を踏まえた私的仮説の整理であり、史実として確定しているものではありません
| 年代(西暦) | 正史 | 私的仮説 |
|---|---|---|
| 686年10月23日? | 天武天皇崩御。 | 正史と同様の流れ。 |
| 686年10月24日〜25日 | 大津皇子謀反容疑で捕らえられて25日に死刑の処される。 | 正史と同様の流れ。 |
| 686年10月25日以降? | ――――――――――――――― | 大津皇子薨去後、周囲からも期待の高い高市皇子が政権を担うが皇后(鸕野讃良皇女)と対立。 |
| 686年10月25日以降? | ――――――――――――――― | 政局不利となった皇后は吉野へ移り、政権は二分・膠着状態となる。 |
| 686年11月? | ――――――――――――――― | 政権二分下、周囲の推戴により飛鳥の地で高市皇子が天皇に即位。 |
| 689年5月7日 | 草壁皇子薨去。 | 正史と同様の流れで飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 689年6月? | 飛鳥浄御原令を制定、施行。 | 正史と同様の流れと考える。 |
| 690年2月14日 | 持統天皇即位(鸕野讃良皇女)。 | 正史と同様の流れで、一時的に二人の天皇が存在する。 |
| 690年10月? | 高市皇子が藤原宮の地を視察し、藤原京造営が具体化。 | 正史と同様の流れで、飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 691年〇月? | 藤原京域の地鎮、官人宅地の班給。 | 正史と同様の流れで、飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 692年3月? | 持統天皇の伊勢行幸、藤原京の道路・宮地を視察。 | 正史と同様の流れで、飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 693年1月? | 高市皇子が浄広壱の位に就く。 | 飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 693年〇月? | 持統天皇が藤原宮地へ行幸。 | 正史と同様の流れで、飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 694年〇月? | 藤原京遷都。 | 正史と同様の流れの中で、飛鳥と吉野の膠着状態が続く。 |
| 696年8月13日 | 高市皇子が薨御。 | 正史と同様の流れで高市皇子(天皇)が崩御し、膠着状態が終焉して政権統合。 ※鸕野讃良皇女(持統天皇)の勝利で膠着状態が終焉。 |
| 697年3月13日 | 軽皇子が立太子。 | ――――――――――――――― |
| 697年8月22日 | 持統天皇が譲位し、軽皇子が文武天皇として即位。 | ――――――――――――――― |
正史と異説を交えて考慮すると、軍事的衝突に至らない膠着状態の中で、双方が慎重に機会をうかがっていた可能性も考えられます。
また、この観点から見ると、膠着状態の中で双方が慎重に機会をうかがう状況は、政治運営上いずれにとっても厳しいものであったと言えるでしょう。
その上で、仮に一時的に二人の天皇が存在したとすれば、正史と異説を踏まえると、持統天皇の実績は実際には二人で担われたものが一人に集約されている可能性も考えられるのではないでしょうか。
【補足】
天武天皇の崩御日は「朱鳥元年9月9日」や「686年10月1日」とされるが、旧暦・西暦の混在により解釈に揺れがあります。
大津皇子の薨去日(西暦686年10月25日)との関係から見ると、天武天皇の崩御日は西暦686年10月23日前後であった可能性も考えられるのです。
-2- 高市皇子皇太子説から見る政権分裂の仮説
「暦歴徒然草」に見る異説での経緯では高市皇子は皇太子や天皇(高市皇子=持統天皇)と見られています。
正史にあるように大津皇子事件が起こりますが、この場合は父の天武天皇の意思や兄(高市皇子)に対して、謀反したという流れになるのです。
そして、先ほどの仮説と同様に皇后である鸕野讃良皇女か、或いは高市皇子がか関与し、大津皇子を何らかの罪で逮捕し、処刑というよりは自害に追い込まれたと仮定します。
しかし、大津皇子事件の どさくさに紛れて 皇后(鸕野讃良皇女)は息子の草壁皇子を皇位に就けたいがために高市皇子と対立するのです。
天武天皇崩御と大津皇子事件後(686年10月以降)は内乱が起こり、飛鳥での政局で分が悪くなった皇后は吉野に拠点に移し、政権が二分され、膠着状態になります。
政権が二分されてから、飛鳥では周囲に望まれて高市皇子が天皇に即位します。
膠着状態から3年後の689年5月に草壁皇子が正史にあるように薨御するのです。
息子の草壁皇子を皇位に就けたかった皇后(鸕野讃良皇女)は対立する意味も無くなり、和睦をし、飛鳥と吉野の膠着状態は終焉を迎えます。
※草壁皇子に実子たる後継ぎがいないことで対立する意味が無いことを仮定しています。
いくらわだかまりがあろうと、、高市皇子でも先の皇后を罰することは無理があるでしょう。
7年後の696年8月に天皇に即位していた高市皇子が崩御します。
一年後の697年8月、「暦歴徒然草」に見る異説から高市皇子と阿閇皇女(後の元明天皇)の間に生まれた軽皇子は文武天皇として即位するのです。
高市皇子皇太子説から見る政権分裂の仮説は以上となります。
※高市皇子皇太子説から見た政権分裂の仮説は、『暦歴徒然草』に見られる異説をもとに構成しています。そのためここでの本記事では、皇后である鸕野讃良皇女についても正史とは異なる位置づけとし、あくまで私的な仮説として描いています。
*仮説ベースの年表・出来事まとめ*
※以下は正史・異説・創作を踏まえた私的仮説の整理であり、史実として確定しているものではありません
| 年代(西暦) | 正史 | 私的仮説 |
|---|---|---|
| 686年10月23日? | 天武天皇崩御。 | 正史と同様の流れ。 |
| 686年10月24日〜25日 | 大津皇子謀反容疑で捕らえられて25日に死刑の処される。 | 正史と同様の流れ。 |
| 686年10月25日以降? | ――――――――――――――― | 大津皇子薨去後、皇太子の高市皇子が政権を担うが皇后(鸕野讃良皇女)と対立。 |
| 686年10月25日以降? | ――――――――――――――― | 政局不利となった皇后は吉野へ移り、政権は二分・膠着状態となる。 |
| 686年11月? | ――――――――――――――― | 政権二分下、周囲の推戴により飛鳥の地で皇太子 高市皇子が天皇に即位。 |
| 689年5月7日 | 草壁皇子薨去。 | 正史同様、皇后(鸕野讃良皇女)が和睦し、飛鳥・吉野の膠着は終息。 ※後継ぎの草壁皇子薨去で皇后の敗北 高市皇子(ここでの異説や仮設では持統天皇)の勝利で終焉。 |
| 689年6月? | 飛鳥浄御原令を制定、施行。 | ――――――――――――――― |
| 690年2月14日 | 持統天皇即位(ここでは正史の鸕野讃良皇女)。 | ――――――――――――――― |
| 690年10月? | 高市皇子が藤原宮の地を視察し、藤原京造営が具体化。 | 正史同様だが天皇は高市皇子(持統天皇) |
| 691年〇月? | 藤原京域の地鎮、官人宅地の班給。 | 正史同様だが天皇は高市皇子(持統天皇) |
| 692年3月? | 持統天皇の伊勢行幸、藤原京の道路・宮地を視察。 | ――――――――――――――― |
| 693年1月? | 高市皇子が浄広壱の位に就く。 | ――――――――――――――― |
| 693年〇月? | 持統天皇が藤原宮地へ行幸。 | 正史同様だが天皇は高市皇子(持統天皇) |
| 694年〇月? | 藤原京遷都。 | 正史同様だが天皇は高市皇子(持統天皇) |
| 696年8月13日 | 高市皇子が薨御。 | 正史同様だが天皇・高市皇子(持統天皇)が崩御。 |
| 697年3月13日 | 軽皇子が立太子。 | 高市皇子(持統天皇)と阿閇皇女の息子である軽皇子が立太子。 |
| 697年8月22日 | 持統天皇(鸕野讃良皇女)が譲位し、軽皇子が文武天皇として即位。 | 高市皇子(持統天皇)と阿閇皇女の息子である軽皇子が文武天皇として即位。 |
余談ですが、ここで藤原不比等について触れておきます。
不比等の娘たちは皇族に嫁いでおり、宮子は文武天皇の夫人、安宿媛(後の光明皇后)は聖武天皇の后となりました。
ここでの本記事の仮説では、阿閇皇女の配偶関係(草壁皇子か、高市皇子か)を異説に基づいて再構成していますが、ここで疑問に思われる方もいるかもしれません。
しかし、阿閇皇女が誰と婚姻していたとするかにかかわらず、その立場や子女(軽皇子・氷高皇女・吉備内親王)といった基本的な系譜は変わりません。
したがって、藤原不比等の娘たちが文武天皇・聖武天皇の后妃となる流れについても、正史と本仮説との間で大きな矛盾は生じないと考えています。
あれこれと私的な仮説を立ててみましたが、実際の歴史状況を踏まえると、いくつか慎重に考えるべき点も見えてきます。
たとえば、天武天皇崩御後には、大内陵の造営に伴う長期間の殯が行われており、その間に高市皇子と皇后(鸕野讃良皇女)が明確に政権を分けて対立していたと見るにはやや無理があります。
さらに、藤原京造営の準備といった大規模な政治事業も進められていたことを考えると、飛鳥と吉野で政権が二分されていたとする見方には、やはり一定の制約があると言えるでしょう。
7. 高市皇子は本当に天皇だったのか?可能性を探る
ここまで見てきたように、高市皇子をめぐっては、正史・異説・創作それぞれの視点から複数の像が浮かび上がってきます。
では、実際のところ高市皇子は「天皇だったのか」。
本章では、その可能性をいくつかの視点から整理してみます。
① 即位していた可能性
高市皇子が天皇に即位していた可能性は、完全に否定しきれるものではありません。
『万葉集』に見える「高市皇子尊」や「後皇子尊」といった尊称、さらには「御門」「大王」といった表現は、単なる皇子に対するものとしてはやや異例とも言えます。
また、『二中歴』を基にした「暦歴徒然草」の異説では、高市皇子が天皇として即位したとする記述も存在します。
これらを踏まえると、記録には残されていないものの、何らかの形で即位、あるいはそれに近い地位にあった可能性も、一つの見方として考えられるでしょう。
② 即位していなかった可能性
一方で、正史である『日本書紀』には、高市皇子の即位を示す記述は一切見られません。
在位期間や詔、諡号といった天皇に不可欠な記録も存在せず、制度的に見れば即位していないとするのが自然な理解です。
また、天武天皇崩御後の殯や藤原京造営といった政治的状況を考慮すると、実際に政権が分裂し、別個の天皇が並立していたとするには一定の無理があることも否定できません。
こうした点から見れば、高市皇子はあくまで「強大な実力を持つ皇子」であり、天皇ではなかったとする見方が、現時点では最も妥当と言えるでしょう。
③ 記録が操作された可能性
もう一つ考えられるのが、後世の編纂過程において、記録が何らかの形で整理・調整された可能性です。
『日本書紀』は国家によって編纂された正史であり、政治的意図が全く存在しなかったとは言い切れません。
仮に、高市皇子が一時的にでも天皇に近い立場にあった場合、それが後の正統性にとって不都合であれば、記録上整理される可能性も理論上は考えられます。
もちろん、これを裏付ける直接的な証拠は存在しませんが、異説や伝承が残されていること自体が、当時の状況の複雑さを物語っているとも言えるでしょう。
④ 母系から見た即位可能性 ― 額田王母親説という仮定(私的仮説)
ここで一つ、あくまで仮定の域を出ないものの、視点を変えた可能性について触れておきます。
高市皇子の母は一般に尼子娘とされますが、もし仮に母が 額田王 のような中央に深く関わる女性であったとしたら、どのように見え方は変わるのでしょうか。
もちろん、額田王が高市皇子の母であるとする史料的根拠は確認されておらず、これはあくまで想像上の仮定にすぎません。
まず、なぜ高市皇子の母親を額田王と仮定したのかというと、父親の天武天皇の妻で誰が妥当かを考えたのです。
天武天皇の妻で皇女を娶ったのは天智天皇の娘だけとなります。
※額田王は王女
天智天皇の娘だと、高市皇子(654年の生誕と見られる)と同年代か、少し上か、少し下の世代となるので、母親としては年齢が釣り合わないのです。
・大田皇女(生誕不詳、645年以前?)
・鸕野讃良皇女(645年生誕)
・大江皇女(生誕不詳)
・新田部皇女(生誕不詳)
天武天皇の妻(天智天皇の娘)で皇族の女性は4人だけです。
高市皇子は654年の生誕と見られているので、皇后の鸕野讃良皇女でさえ645年生誕とされますから、釣り合いません。
生誕不詳の皇女もいますが、鸕野讃良皇女の生誕645年頃を基準に考えても無理があるのは理解できると思います。
そこで、高市皇子の母親を皇族の女性とすると、額田王しかいないということです。
額田王の父親は鏡王とされ、飛鳥時代の皇族と見られています。
鏡王は血筋を遡ると宣化天皇(継体天皇の息子)に繋がるようです。
額田王には姉の鏡王女がいるようですが、こちらでは舒明天皇の血筋に繋がるという説もありますが、具体的なことは不明です。
この経緯で見ると額田王は父親が「王」ですから、天皇の血筋では、かなり遠ざかっていることになります。
仮に額田王を高市皇子の母親としても、血統的には草壁皇子や大津皇子には敵わないでしょう。
さらに、いつ頃かは不明ですが、鏡王は臣籍降下して氏族になったという記載もあります。
『天上の虹』での額田王を豪族として扱ったのは、父親の鏡王が臣籍降下したことが影響したのかもしれません。
ただし、額田王は天武・天智両系に関わる人物として知られ、宮廷文化・政治の中枢に近い位置にあったと考えられています。
もしそのような女性が母であった場合、高市皇子の立場は単なる「地方豪族の出自を持つ皇子」ではなく、より中央的・正統性の高い血統として再評価される可能性があります。
額田王には十市皇女という娘がおり、高市皇子の母親が仮に額田王の場合は姉と弟という同母兄弟になります。
かなり憶測なこじ付けですが、筆者は二人の名前である「市」が気になっていたのです。
普通に考えるのであれば、「十市」は現在の奈良県橿原市南部〜明日香村周辺の地名に由来し、現地を十市氏が地盤としていたから、そこで養育されて十市皇女になったと見るのが一般的です。
「高市」は奈良県の高市郡(明日香村・高取町周辺)に由来します。
現地で養育されたから、高市皇子という名前になったと考えられますが、疑問もあるのです。
十市氏は豪族と考えられますが、高市氏は可能性はあるが、明確ではありません。
そこで、「額田王が どこで十市皇女を育てたのか?」や「どのような経緯で高市皇子と名付けられたのか?」という疑問も湧くのです。
額田王は大和国平群郡額田郷や島根県東部(出雲国意宇郡)のどちらかで誕生したという説があります。
具体的な出生地は不明ですが、仮に大和国平群郡額田郷が母方の実家であるなら、十市郡や高市郡とも距離としても近いと言えるでしょう。
そこから、仮に二人を額田王の同母とし、額田郷で兄弟(姉と弟)共に育てられ、十市氏や高市氏が天武天皇と額田王の強力な支援者とすれば解釈としては成立しうるのではないかと考えたのです。
また、「どのような経緯で高市皇子と名付けられたのか?」という疑問については、正史によれば大和国高市郡で高市皇子が育てられたからと見るのが一般的と言えるでしょう。
ただ、これも諸説あるとのことで明確ではありません。
尼子娘を母とする正史では母方の氏神を祀り、現在の奈良県桜井市に宗像神社を高市皇子が創建したと伝えられます。
しかし、この桜井市にある宗像神社は地理としては桜井市の中央から北寄りとなるので、どちらかでいうと十市郡寄りなのです。
もしも、仮に高市郡に神社があるとすれば桜井市の南西部に位置する必要があるのです。
この経緯を踏まえると、高市皇子と十市皇女は額田王の実家かもしれない額田郷で育てられ、天武天皇と額田王は十市氏、高市氏、宗形氏らから支持され、支援されたことで、皇子と皇女はそれぞれの名前を名付けられたのではないでしょうか?
桜井市にある宗像神社の創建は具体的なことは不明ですが、天武天皇朝以前とされていることから、これを考慮すると天智天皇朝か?斉明天皇朝か?、、と結局は不透明となります。
むしろ天武天皇が創建に関与していたと見るほうが自然ではないでしょうか?
さらに額田王を高市皇子と十市皇女の同母とすると、万葉集の歌をどう見るのかという点に気づきます。
高市皇子と十市皇女は正史では異母兄弟であり、恋仲ではないかという説もありますが 明確な記録はありません。
高市皇子は、亡くなった十市皇女への挽歌が三首あります。
『三諸の神の神杉 巳具耳矣自得見監乍共 寝ねぬ夜そ多き』
『三輪山の山辺真麻木綿 短木綿 かくのみゆえに長しと思ひき』
『山吹の立ちよそひたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく』
※一部分を抜粋しています
引用元/十市皇女「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
どれも意味としては、亡き人に恋焦がれた恋人に贈った歌に思えなくはありませんが、もしも二人が額田王を同母とする姉と弟の場合は、早くに亡くなった姉を強く偲ぶ歌という見方も出来なくはないと思うのです。
例えば、、
「共に眠れぬ夜」→ 子供時代・同居・生活の共有の記憶
「短いのに長いと思った」→ 幼少〜青年期の時間の体感
「道が分からない」→ 死別による完全な断絶
これらはすべて「近しい家族を失った悲しみ」として綺麗に繋がるように感じられるのです。
明確な恋愛関係の史料がないことから、この姉と弟の兄弟説は こじ付けや憶測となります。
これらの歌は恋愛詩の語彙を用いていますが、必ずしも恋人関係を意味するものではなく、同母の姉を失った弟の深い喪失感としても自然に解釈できるのではないでしょうか?
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これらの仮定に立つと、これまで見てきた、、
・壬申の乱での重要な役割
・政権中枢における実務的地位
・万葉集に見える高い尊称
どの要素も、「本来は皇位に極めて近い存在であった人物」として、より整合的に理解することができるかもしれません。
高市皇子が即位しなかった理由を「能力」ではなく「記録や血統の見え方」の問題として捉え直す視点が生まれるのです。
※繰り返しになりますが、この説は史実に基づくものではなく、あくまで可能性を広げるための思考実験の一つにすぎません。
しかしこうした視点を通すことで、高市皇子という人物の位置づけが、より立体的に見えてくるのもまた事実でしょう。
8. なぜ「即位しなかったこと」にされたのか

① 政治的事情(持統天皇との関係)
高市皇子が即位しなかった理由として、まず考えられるのが政治的事情です。
天武天皇の死後、政権の中心に立ったのは皇后である持統天皇でした。
持統天皇にとって最優先の課題は、自らの子である草壁皇子の系統へ皇位を継承させることにあったと考えられます。
この状況において、軍事・政治の両面で実績を持つ高市皇子は、有力であるがゆえに潜在的な対抗勢力ともなり得る存在でした。
そのため、高市皇子が政権中枢にありながらも即位には至らなかった背景には、持統天皇による継承戦略が影響していた可能性があると見ることもできるでしょう。
もっとも、両者の関係が単純な対立であったかについては史料上明確ではなく、協調と緊張が併存していた可能性も否定できません。
② 正統性の問題
次に考えられるのが、皇位継承における正統性の問題です。
古代において「母が皇族でなければ即位できない」という明確な制度は確認されていません。
しかし実際には、母の出自が中央有力氏族、あるいは皇族であることが、皇位継承において大きな影響力を持っていたと考えられます。
その点で、高市皇子は父系では天武天皇の直系でありながら、母が尼子娘(宗形氏出身)とされるため、草壁皇子や大津皇子と比べて血統的な優位性で劣ると見られていた可能性があります。
こうした事情が、実績とは別の次元で即位を難しくしていたと考えることもできるでしょう。
一方で、本記事で触れたように、母系を再解釈することで別の見方が成立する余地もあり、この点は議論の余地を残す部分でもあります。
③ 歴史編纂の意図
さらに一つの視点として、歴史編纂の問題も考えられます。
『日本書紀』は、完成時点の政権にとって都合の良い形で歴史が整理されている可能性が指摘されています。
もし仮に、高市皇子が何らかの形で皇位に近い立場にあった場合でも、後の正統な系譜(持統 → 文武)を強調するために、その事実が記録されなかった、あるいは簡略化された可能性は理論上考えられます。
ただし、これを裏付ける直接的な史料は存在せず、あくまで可能性の一つとして慎重に扱う必要があります。
以上のように、高市皇子が「即位しなかった」とされる背景には、、、
・政治的な力関係
・血統をめぐる評価
・歴史記録の編纂
これら複数の要因が重なっていた可能性が考えられます。
いずれも決定的な証拠があるわけではありませんが、こうした視点を重ねることで、「なぜ彼が天皇にならなかったのか」という問いは、単なる事実の問題ではなく、歴史の見え方そのものに関わる問題であることが見えてきます。
9. 結論:幻の即位の可能性
本記事では、高市皇子をめぐる「天皇説」について、正史である『日本書紀』、異説を伝える『二中歴』からの「暦歴徒然草」、さらに『天上の虹』といった創作作品の視点、そして私的仮説を交えながら多角的に検討してきました。
その結果として浮かび上がるのは、高市皇子が「天皇であった」と断定できる明確な史料は存在しない一方で、「天皇に極めて近い位置にあった人物」であった可能性は十分に考えられる、という姿です。
壬申の乱における功績、政権中枢での実務的役割、そして『万葉集』に見られる高い尊称。
これらを踏まえれば、彼が単なる一皇子にとどまらない存在であったことは疑いようがありません。
しかし同時に、持統天皇のもとで進められた皇位継承、母系血統の評価、さらには歴史編纂のあり方といった要素を考慮すると、彼が即位しなかった(あるいは即位していないとされた)ことにも、一定の合理性が見えてきます。
つまり、高市皇子の「天皇説」は、事実としての即位を示すものというよりも、当時の政治構造や評価のズレが生み出した『歴史的な余白』の中から生まれたものと捉えることができるでしょう。
また、『二中歴』の資料である「暦歴徒然草」の異説や創作作品に見られる大胆な解釈は、史実とは異なる可能性を含みながらも、「もし別の歴史があったなら」という視点を私たちに提示してくれます。
歴史とは、単に確定した事実の積み重ねではなく、記録されなかった可能性や、後世に再解釈される余地をも含んだものです。
高市皇子が本当に天皇であったのかどうか、、、その答えは、現時点では明確にはできません。
しかしだからこそ、、彼の存在は「幻の即位」というかたちで、今なお私たちに問いを投げかけ続けているのではないでしょうか。
そしてその問いに向き合うことこそが、古代史の持つ大きな魅力の一つなのではないかと思うのです。
