俳優(女優)の山本和子(やまもと かずこ)氏は、元宝塚女優の毬谷友子氏の母であり、劇作家・矢代静一氏の妻として知られる昭和期の女優です。
彼女は、活躍期間こそは短いかもしれませんが、映画や舞台で活躍されていました。
彼女の具体的な経歴について触れていきます。
1. 山本和子氏の生い立ちと終戦体験について
既にお答えがされていますが山本和子さんですね。「青い山脈」でいたずらのラブレターを出して原節子さん扮する先生から厳しく注意される意地悪な女生徒役を演じていました。「女の園」では他の女優さんたちに引けを取らない好演をされていましたが何故かあまり取り上げられないのが残念です。😔 pic.twitter.com/5uqAT650Wb
— googoof (@googoof227538) January 12, 2025
山本和子氏は満州生まれで、10代の多感な時期に終戦を迎えました。
引き揚げ時には劇的な体験をしており、娘の毬谷友子氏のブログによれば、3艘の船のうち日本に無事到着したのは山本氏が乗っていた船だけで、残りは沈没したとのことです。
九州で上陸後、消毒のために頭から身体中に白い粉を蒔かれ、立ったまま貨物列車で東京まで来たという過酷な体験をされています。
山本和子氏は戦争中の辛い話については本当にしたがらなかったそうです。
彼女の出生地や生年月日については具体的には不明ですが、Googleの概要では『1928年1月28日 , 中華人民共和国 撫順市』とあります。
中華人民共和国 撫順市は、一般的に「旧満州」と呼ばれた地域に含まれており、中心的な都市である奉天(現・瀋陽)にも近い場所です。
撫順は、古くから満洲族が多く住む土地でしたが、日露戦争終結後、日本が撫順炭鉱の採掘権を独占し、満鉄が経営にあたりました。
現地では、石炭採掘により急速に発展し、1920年代には奉天に次ぐ工業都市として成長した経緯があります。
旧満州時代には、満鉄の附属地や満州国の行政下に置かれており、当時の炭鉱都市として非常に重要な役割を果たしました。
山本和子氏のご両親についての経緯は不明ですが、旧満州時代の撫順炭鉱の経緯から何かしらの携わりはあったのではないでしょうか。
彼女は『10代の多感な時期に終戦を迎えた』とありますから、Googleの概要から見て終戦時の年齢は17歳だったのかもしれません。
| *参考元 | URL |
|---|---|
| ameblo | https://ameblo.jp/mariya-tomoko/entry-12830718675.html |
2. 山本和子氏の女優としての活躍(代表作品)
山本和子氏は戦後、女優として映画界で活躍しました。
主な出演作品は以下の通りです。
①.『青い山脈』(1949年) - 今井正監督
- 松山淺子 役を演じました
- 主演の原節子や杉葉子と共演
- 物語では、クラスメートの寺沢新子(杉葉子氏)を貶めようとする生徒のボス的存在という重要な役柄
- 戦後民主主義を象徴する名作として知られるこの作品で、旧態依然とした価値観を持つ側の役を演じています
初期に出演した代表作のひとつが、1949年公開の青春映画 青い山脈です。
この作品では、寺沢新子の転校先の女子校で「松山浅子」という女生徒を演じ、「意地悪な女学生」のリーダー格として、準ヒロインに対する陰謀やいじめを仕掛ける役柄だったようです。
しかし、当時の山本和子氏は演技力が良いとは言えず、自身もそれを自覚していたことから、一時期は女優業を引退ししています。
後に俳優座養成所(第1期生)に入所し、千田是也氏や東山千栄子さんの教えを乞うことで、再び復帰を果たしました。
②『女の園』(1954年) - 木下惠介監督
- 服部文江 役を演じました
- 長い台詞のある重要な役です
この作品は、田村正和氏の兄である田村高廣氏の俳優デビュー作でもあります。
③『東京暮色』(1957年) - 小津安二郎監督
- 前川やす子 役を演じました
- 劇中で麻雀をするシーンがありました
- 娘の毬谷氏は偶然銀座の映画館で「小津安二郎映画祭」を観ていた際、スクリーンから突然母の声が聞こえてきて驚いたというエピソードがあります
| *参考元 | URLなど |
|---|---|
| Wikipedia | 東京暮色「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」 |
| ameblo | https://ameblo.jp/mariya-tomoko/entry-12830718675.html |
④その他の出演作品について
- 『早春』(1956年)- 小津安二郎監督
本田久子 役:- 正二の遊び仲間 - 『体の中を風が吹く』(1957年)
ふみえ 役 - 『張込み』(1958年)
旅館の女中・秋江 役
上記以外に、『東京カチンカ娘(1950年公開)』、『エノケンの豪傑一代男(1950年公開)/松平糸路 役』、『青空よいつまでも(1958年公開)/宮内三枝子役(娘)』、『人間の條件 第1・2部(1959年・1960年公開)/珠代 役』などに出演していたとの情報を見かけますが、具体的なことは不明です。
山本和子氏は、再び俳優に復帰してから松竹映画 の専属女優となり、映画出演や演劇活動をされました。
彼女の作品歴を見ると、1960年以降の作品には名前が見られませんから、おそらく俳優歴(女優業)は15年のほどの活動だったのではないでしょうか?
また、意外な一面として作品とは無関係ですが、作曲家の服部良一先生と縁があり、笠置シヅ子さんのバックコーラスをしていたこともあったそうです。
戦後、満州から身一つで引きあげて来た母は、服部良一先生に可愛がって頂いた。双子の姉と共に「服部良一リズムシスターズ」というのに入れて頂き、笠置シヅ子さんのバックコーラスをしていた。これは超お宝写真だと思う。🎉
— 毬谷友子 🕊 TOMOKO MARIYA (@mariyatomoko) February 9, 2024
左から2人目が私の母 右から2人目は #笠置シヅ子さん かな?#ブギウギ pic.twitter.com/qjoRycoyAw
| *参考元 |
|---|
| 早春 (1956年の映画)「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」 |
| 体の中を風が吹く「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」 |
| 張込み「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」 |
| *参考元 | |
|---|---|
| @natukashi・チャンネル | エノケンの豪傑一代男(前編) |
| @natukashi・チャンネル | エノケンの豪傑一代男(後編) |
3. 山本和子氏の私生活と家族構成について
山本和子氏は1954年4月に、作家・岩田豊雄夫妻の媒酌により、四ツ谷の聖イグナチオ教会にて劇作家の矢代静一(やしろ せいいち)氏と結婚しています。
矢代静一氏が和子氏と結婚した経緯は、女優の八千草薫さんに容姿が似ていたことから惹かれたとのことです。
彼女は結婚後に女優業を引退し(おそらく、1960年以降に引退?)、二人の娘を育てました。
矢代静一氏は宝塚が好きだったことから、その影響は娘さんたちにも引き継がれたのかもしれません。
- 夫:矢代静一
(劇作家、脚本家、演出家) - 長女:矢代朝子
(女優) - 次女:毬谷友子
(元宝塚歌劇団雪組娘役、女優)
さらに、山本和子氏には一卵性双生児の姉妹がおり、その姉妹が元宝塚雪組トップスターのえまおゆう氏の母です。
つまり、えまおゆう氏は毬谷友子氏の従妹(いとこ)にあたり、劇作家・矢代静一氏は義理の叔父という関係になります。
| *参考元 | URLなど |
|---|---|
| Wikipedia | 矢代静一「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」 |
| 映画.com | https://eiga.com/person/74875/movie/ |
| fulloflovemy99 | https://fulloflovemy99.com/mariyatomoko-takaraduka-actress-1536 |
まとめ
山本和子氏は、今井正、木下惠介、小津安二郎という日本映画史に残る名監督たちの作品に出演し、特に『青い山脈』では杉葉子の敵役として重要な役割を担いました。
戦後間もない時期の日本映画界において、確かな演技力で印象に残る演技をした女優として記憶されている方も少なからずおられるようです。
山本和子氏は、2002年11月30日に逝去されました。
享年は明らかにされていませんが、激動の昭和を生きた女優として、娘たちに受け継がれる演劇一家の礎を築いた方と言えるでしょう。
