毎年4月下旬あたりに岡山県の和気町藤野で藤まつりが開催されます。藤公園には、和気神社と共に長年に渡って和気清麻呂公の銅像が安置されています。
私は少年期に付近に移住していたことがあり、祭りなどに参加していたことがあります。
当時、清麻呂公について何も知らなかった私は周囲の大人たちに清麻呂公について何をされた人なのかを訊ねましたが、周囲の大人たちは皆口を揃えて同じ事しか言いませんでした。
ただ、単に「良い政治をされた」の一言だけであり具体的に何をされたのかを答えられる人がいませんでした。
当時の30年以上前は現在のように清麻呂公に関わる資料館が無かったように思いますから、詳しく知らない人が大半だったのかもしれません。
今回は、和気清麻呂公が何をした人なのかについてや清麻呂公に関わる物や話題について触れてみたいと思います。ご興味のある方はお付き合いください。
和気清麻呂公の生年や出身地
和気清麻呂公は奈良時代の西暦733年の生まれで出身地は、備前国藤野郡(現在の岡山県和気郡和気町藤野)の出身です。
父は磐梨別乎麻呂(いわなしわけおまろ)であり兄弟では姉に広虫がいて、その時の天皇に在位していた称徳天皇に姉と共に仕えています。
清麻呂公は西暦799年で亡くなりますが、それまでにお仕えした天皇は、称徳天皇、光仁天皇、桓武天皇の三代の天皇に仕えています。
和気氏一族の出自について
清麻呂公の和気氏一族の出自についてですが、和気氏の始まりは古代の天皇にまで遡ります。
第11代、垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子である鐸石別命(ぬてしわけのみこと)が和気氏の始まりとされています。
つまり、清麻呂公は古代皇族の皇統の血筋であることがわかります。
和気清麻呂公は何をした人?
和気清麻呂公は三代の天皇に仕えていたわけですが、功績を評価されたのは光仁天皇や桓武天皇に仕えていた頃です。
主な功績として、
「 延暦4年(785年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。」
「延暦7年(788年)にのべ23万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうと工事を行ったが費用がかさんで失敗している。」
「延暦3年(784年)の遷都後10年経過しても未だ完成を見なかった長岡京に見切りを付けて、山背国葛野郡宇太村を選んで平安京への遷都を進言するとともに、延暦12年(793年)には造宮大夫に任ぜられ、自身も建都事業に尽力した。」
和気清麻呂公の功績は上記を見てわかるように現在の公共事業、インフラ整備に尽力していたことがわかります。
事業の中には成功ばかりでなく経費がかさんで失敗しているものもあるようですね。
治水工事は、現代のような測量や推し量れる方法や知識などが少なかったかもしれませんから難しい事業に着手していたのがわかります。
桓武天皇在位時の一番の功績は平安京の都創建に尽力した事が大きいように思えます。
794年に都が完成していることは後世では誰もが知っていることですが、歴史の知識を得るために小、中学校時代に「泣くよ、ウグイス、平安京」で歴史年表を覚えていた頃を思い出します。
光仁天皇から桓武天皇の在世時は、都を平城京から長岡京へ遷都して、その後に平安京と二度に渡り遷都していますから清麻呂公の事業は治水事業以上に都に関わる事業も大変なものがあったと考えられます。
*宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)の功績
宇佐八幡宮神託事件は、769年に起こった出来事です。この頃に姉と共に仕えていた天皇は称徳天皇という女性の天皇です。
称徳天皇は皇位に二度即位(重祚)していて、一度目の即位時は孝謙天皇となり皇位を淳仁天皇に譲ってからは上皇となり、その後に再び天皇に返り咲いています。
因みに称徳天皇の父は、奈良の大仏創建を命じた聖武天皇です。
称徳天皇は上皇位に就いていた頃の761年に病となり伏せっていましたが、弓削氏の僧である道鏡の看病を受けて完治して以来、道鏡を重用するようになります。
764年に称徳天皇は自身の一族で従兄弟でもある藤原仲麻呂が反乱を起こします。(恵美押勝の乱)
仲麻呂の反乱に勝利した称徳天皇は再び天皇位に返り咲いて、重用していた道鏡は次第に政治権力を持つようになり太政大臣禅師という高位に就きます。
769年宇佐八幡宮から神託として道鏡を皇位に就かせれば天下太平となるとの奏上がありました。
称徳天皇は神託の事の経緯を確かめるように和気清麻呂に命じます。
宇佐八幡宮に赴いた清麻呂公が大神の神託を持ち帰り奏上したのが次の文面です。
「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
神託の意味は要するに「日本は古来より天皇家の家系の中から天皇を立ててきた。天皇家の血筋ではない無道の人(道鏡)をすぐに排除せよ」というような内容になります。
この神託の内容に称徳天皇は激怒し、清麻呂公は姉の広虫と共に流罪に処されます。
本来であれば、清麻呂公の一言で天皇家の天皇制度が崩壊するような出来事でしたから、それを崩壊させることなく維持した事はとても評価のできる功績です。
しかし、称徳天皇の心情は道鏡に皇位を譲り新たな天皇制を創り変えたかったのだと思います。
称徳天皇からすれば清麻呂の行為は裏切りであり許せなかったのかもしれません。
天皇制度を守った清麻呂公の功績は次代の天皇である光仁天皇、桓武天皇の後世に評価されることになります。
和気清麻呂公に関わる物や話題
*別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)に改名
769年の宇佐八幡宮神託事件後、流罪に処せられた時に貶められた名前を称徳天皇から名付けられたのが別部穢麻呂(わけべの きたなまろ)という名前です。
770年に称徳天皇崩御後、弓削の道鏡失脚後には、政界に復帰して元の名前に戻されています。
*和気清麻呂公と小室圭氏?
何の関係性があるのかと思うかもしれませんが、2021年当時に元皇族の家柄である竹田恒泰氏がYouTube動画で興味深い例え方として印象に残っているものがあります。
秋篠宮家の長女、真子様の婚姻相手である小室圭氏を和気清麻呂公に例えたり、弓削の道鏡に例えていたりなどしていましたから竹田恒泰氏は想像力の豊かな方だと思いました。
小室圭氏を道鏡や清麻呂に例えている理由は、当時の皇室問題で議論されていた女性ノ宮家創設が排除されたからです。
竹田恒泰氏は常々、女性天皇論に反対していたことから功績として捉えて、この時の小室圭氏を弓削の道鏡に例えていますし、天皇制度を維持して守ったことから和気清麻呂公にも例えています。
竹田恒泰氏は小室圭氏を令和の道鏡、令和の清麻呂公として見ているようです。
少し話が逸れてしまいますが、現在の皇室の人数も少なくなっている状況ですから、女性ノ宮家創設の議論は今後も続けられて現実的なものになるだろうと個人的に思います。
*藤まつり
毎年4月下旬に岡山県和気町藤野の藤公園で開催されます。
•所在地:〒709-0412 岡山県和気郡和気町藤野1893
•営業時間:8:00~21:00
•TEL:0869-93-1126
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まとめ
以上が、和気清麻呂公が何をした人なのか?についてや清麻呂公に関わる物や話題について触れたものです。
清麻呂公の和気一族の出自が古代天皇家の皇統であるのは驚きでしたが、事実なのかというと微妙なものを感じます。
垂仁天皇の存在自体に微妙なものがあります。
垂仁天皇の生年が西暦の紀元前69年であり、崩御されたのが紀元70年であるとされていますから年齢にして140歳ぐらいまで生きたことになります。
現在の年齢でも140歳まで生き抜くのは難しいと思いますから過去の日本書紀の記録を鵜吞みに信じるのはどうなのかと思います。
しかし、古代天皇家の血筋を引いているかどうかよりも臣下として天皇制度を維持して守りきったことは功績です。
おそらく、神託を持ち帰って奏上した一言には重みがあり迷いもあったのではないかと思われます。
もし、道鏡を天皇にする神託を奏上していたら、万世一系とされる天皇家は奈良時代に潰えていて、中国王朝や他王朝のような易姓革命になっていたかもしれません。
清麻呂公は奈良時代の英雄であったと個人的に思います。
他にも清麻呂公にはイノシシの伝説もありますが、上記には採り入れませんでした。理由としては、内容がファンタジーで虚構ではないか?と思ったからです。
宇佐八幡宮事件後に流罪で現地に向かう前に道鏡に足の腱を切られて立つことができない状態ですが、道中にイノシシが清麻呂公を助けて守り宇佐八幡宮での参拝を終えるとイノシシはどこかに去っていきます。
気がつくと切られていた足の痛みは治っていて再び歩けるようになった話です。
この話の詳しい内容は、和気神社にも記載があります。
内容がファンタジー過ぎるので後世の創作で道鏡を悪く書き立てることによって、清麻呂公をより英雄に飾り立てているようにも感じます。
以上が、和気清麻呂公についてです。記事にお付き合いいただきありがとうございました。