5月7日放送の大河ドラマ「どうする家康」の17話では、三方ヶ原合戦が描かれています。
史実においても圧倒的な強さを誇る武田軍ですが、徳川家康が武田信玄に挑んだ理由については様々にあり、実際にどの理由が妥当なのかがよくわかっていません。
今回は、三方ヶ原の戦いで家康が信玄に挑んだ理由についていくつかを挙げてみます。また、大河ドラマでも選択しそうな理由(あくまで憶測)についても触れてみます。
三方ヶ原の戦いで家康が信玄に挑んだ理由?
三方ヶ原は、現在の静岡県浜松市で起こった合戦です。家康は信玄に挑みますが、誘い込まれて待ち構えていた信玄に大敗します。
徳川家の支城が次々と陥落していく中、浜松城の目前で西へ進路ルートを変更した武田軍に家康は籠城したままなのか?城から討って出るのか?の選択を迫られます。
家臣たちの中には、強い武田軍に挑むのに反対、勝てる見込みが無いと見ていたことから籠城との考えが多かったようです。
家康の決断は城から討って出ることを選択します。圧倒的な強さを誇る信玄に何故、家康は挑んだのか?について考えられる理由を7つ挙げてみます。
1.浜松城を素通りされた(無視された)ことに家康が激怒したから?
当時の常識として目的地の進行ルートに城があるのであれば、攻めて陥落させて進行するのが常識とされたことから、浜松城を素通り(無視)されたことに家康が激怒して信玄に挑んだ。
当時の常識かもしれませんが、何か単純な感じがしますね。
2.岡崎城が攻められる可能性があった?
妻(瀬名)や信康など家族のいる岡崎城が攻められる可能性があったと見ているのかもしれません。
武田軍が浜松城から西へ進路ルートを変更した時に家康は、どこを目的地に進行しているのかはわかっていなかったはずなので、岡崎城が攻められると見た可能性もあります。
3.同盟者の織田信長の逆鱗に触れるから?
浜松城から西へ進路ルートを変更した信玄の思惑はわかりません。
上洛のためか?織田信長を討つか?或いは織田家の領土を得るためか?真相ははっきりしません。
同盟者の織田信長から見れば、家康は立場の弱い存在(おそらく)でしたから、武田軍に戦いを挑まず西へ素通りなどさせれば、信長が窮地に追い込まれます。
信長の逆鱗に触れることを恐れた家康は、同盟者の信長に対する義理を通そうとしたのかもしれません。
4.遠江の民から見限られる、或るいは将兵
遠江の民や将兵たちの離反を防ぐためだったと考えられます。
遠江の平定で統治して間もなく民や将兵までもが充分に心服していなかった可能性もあります。
敢えて負け戦であっても戦ったのは、家臣の信頼を勝ち取り勇敢さを内外に示すために信玄に挑んだのかもしれません。
5.遠江の将兵だけでなく、三河の譜代家臣からも見限られそうだった?
遠江の将兵たちの離反を防ぐためでもありますが、三河の平定から遠江の平定まで(11年あたり)譜代の家臣までもが充分に心服していなかった可能性があります。
三河一向一揆でも家臣が離反していますが、家康は家臣の離反を不問として許しています。
家臣の結束が固いと思われた徳川軍ですが、今川家の人質生活も長かったことから譜代家臣(特に岡崎城の家臣)は完全には心服していなかったのかもしれません。
心服していた家臣はほんの一部だったのではないでしょうか。
敢えて負け戦であっても戦ったのは、遠江の将兵だけでなく、岡崎城の譜代家臣も含めて信頼を勝ち取り勇敢さを内外に示すために信玄に挑んだのかもしれません。
6.信玄が堀江城を攻略する可能性があったから?
武田軍が浜松城から西へ進路ルートを変更した時に家康は信玄が堀江城を攻略する可能性があると見たのかもしれません。
堀江城には浜名湖水運があります。信玄は浜名湖水運を掌握することで徳川軍の浜松への物資輸送を滞らせることを念頭においたのかもしれません。
家康にとって浜名湖水運が武田軍の手に渡れば、物資が届かないわけですから、籠城どころではなくなり危機的状況に陥ることになります。
この状況では、家康は無理にでも信玄と戦う必要があったとも考えられます。
7.三方ヶ原西方の祝田坂(ほうだざか)なら勝算があると見て挑んだ?
家康は物見の報告から武田軍が三方ヶ原西方の祝田坂を下っている情報を得ます。
祝田坂を武田軍が下っている時に襲撃すれば勝算があると考えたようです。
祝田坂の途中にいる兵が坂を上るのは困難であるため、その時に襲撃すれば勝利できると見越したから信玄に挑んだのでしょう。
実際に祝田坂に赴くと武田軍は祝田坂を下りることなく、陣取り徳川軍を待ち構えていたことから、既に信玄に先を読まれていたようです。
大河ドラマ「どうする家康」で、信玄に挑んだのはどんな理由か?
*筆者は番組の先の内容がわからないので、憶測になります。上記の7つの案の中から予想します。
2.岡崎城が攻められる可能性があった?
ドラマでは、妻(瀬名)や信康など家族家族思いの描写が色濃くでていますから、理由の一つになりそうです。
史実では、妻との関係性はこの当時には冷え切っていたようですが?
3.同盟者の織田信長の逆鱗に触れるから?
ドラマでは、織田信長を岡田准一さんがいい味を出して演じていますね。逆鱗に触れたくないから、同盟者の信長に義理立てしているのが理由の一つに感じられます。
4.遠江の民から見限られる、或るいは将兵
ドラマで、後に徳川四天王の一人となる若き井伊直政が家康を襲撃して言い放ちましたね。
家康は遠江の民からは、今川家の裏切り者だとかで民から心よく思われていないことを告げられます。
遠江の民や或るいは将兵たちの信頼を勝ち取り勇敢さを内外に示すために信玄に挑んだのも理由の一つかもしれません。
7.三方ヶ原西方の祝田坂(ほうだざか)なら勝算があると見て挑んだ?
三方ヶ原西方の祝田坂なら勝算があると見て挑んむのは、武田軍が下っている時に襲撃すれば勝算があると単純に考えそうな気がしますので、ドラマの中では理由の1つになるかもしれません。
*大河ドラマで信玄に挑んだ理由は、重要な戦略拠点についての理由ではなくて、家族間や人間くさい模様などが理由として信玄に挑むのではないかと思います。(あくまで憶測です)
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まとめ
以上、三方ヶ原の戦いで家康が信玄に挑んだ理由について7つを挙げました。
史実では、どれが真相なのかはわかりません。
家康が信玄に挑んだ理由について筆者が個人的に思うのはどれもが一つに繋がったのではないかと思います。
7つの理由はどれも考えられますが、一番有力な理由は、6.の信玄が堀江城を攻略する可能性があったから?が一番ではないかと思います。
物資輸送が届かなくて籠城できないのは一番の問題であると考えます。
それに引き続いて、5.の遠江の将兵だけでなく、三河の譜代家臣からも見限られそうだった?、3.の同盟者の織田信長の逆鱗に触れるから?など後から様々な理由が思い浮かぶのではないかと思います。
城で籠城を選んでいたら三河一向一揆のように家臣の離反者が増えたかもしれませんね。
皆さんは、どのようにお考えでしょうか。