2024年の大河ドラマ「光る君へ」で藤原道長の役を俳優の柄本佑さんが演じていますね。
藤原道長と言うと歴史教科書でも摂関政治を行った権力者というイメージをもっている人が多いと思います。
ご存知な方が大半な人物だと思われますが、今回は藤原道長の生い立ちや何をした人なのかについて触れていきます。
藤原道長の生い立ち!
藤原道長の生い立ちについてですが、大半の方が元々権力者だったと思ってはいないでしょうか?
先ず道長の家柄から説明していきます。
元々 藤原氏がどのような流れでできた家柄かをご存知ない方もおられるかもしれませんので、一応説明しておきます。
かなり遡った話をしますが、飛鳥時代に中大兄皇子(なかのおおえのおうじ/後の天智天皇)が乙巳の変(いっしのへん)というクーデターを起こして蘇我入鹿を暗殺することはご存知であると思います。
歴史教科書でも有名なクーデターですが、30年前や40年前の教科書だと大化の改新(たいかのかいしん)という記載だったかもしれません。
この時に中大兄皇子らと共にクーデターに参加していたのが中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。
後に中大兄皇子(天智天皇)の側近として仕え、亡くなる間際に功績を称えられて藤原性を賜ります。
道長の家系は元々は中臣鎌足から続いているということになります。
更に細かくいうと、藤原不比等の息子たちの藤原4兄弟と言われた藤原房前(ふじわら の ふささき/藤原北家)の流れを汲んでいます。
藤原北家(ふじわら ほっけ)は後に摂関家となっています。
飛鳥・奈良時代で権力の座にあった藤原不比等の息子たちは兄弟で協力して一族の権威を高めていきましたが、次第に子々孫々と権力を受け継ぐ中で一族同士で争うことになっていきます。
藤原道長の生きた平安時代中期も同様に一族で権力の座を争っています。
先ほど「藤原道長が元々権力者だったと思ってはいないでしょうか?」という思い込みのようなことを記載しましたが、実は道長は元々権力の座に就けるような人ではありませんでした。
ただ、彼(道長)は運が良かったのです。
道長が生誕したのは、966年(康保3年)で月日は、ハッキリとしません。
父は藤原兼家(ふじわら の かねいえ)で、母は藤原中正の娘 藤原時姫(ふじわら の ときひめ)です。
父の藤原兼家には男女合わせて10人近くの子供がおり、道長は兼家の5番目の男子です。
既に長男の道隆(みちたか)が家の後継ぎと決まっていたので道長が後を継ぐことは、ほとんど無い状態でした。
母の時姫は正妻として扱われていたようで、兼家との間にもうけた男子は道隆、道兼、道長の3人です。
年上の兄が2人いたことから、早くに兄たちが亡くなることがないかぎり、家を継ぐことも権力の頂点に就くことも道長には出来なかったのです。
しかし、そんな兄たちが早死にするのです。
長男の道隆は995年5月に、三男の道兼は道隆が亡くなった1ヶ月後に亡くなります。
兄2人が亡くなった頃、道長は29歳で急遽 政治の表舞台に日の目を見ることになります。
*道長(藤原氏)の著名な先祖
・中臣鎌足
(藤原鎌足)
・藤原不比等
(鎌足の息子)
・藤原房前
(不比等の息子/藤原北家 祖)
*道長の家族関係
(父母兄弟まで)
・藤原兼家(父)
・藤原時姫(母)
・藤原道隆(同母兄)
・藤原道兼(同母兄)
・藤原超子(同母姉)
・藤原詮子(同母姉)
・藤原道綱(異母兄)
・藤原道義
(異母兄、庶子で兼家の四男)
・藤原綏子(異母妹)
・兼俊
(異母兄、真言宗の僧侶)
・藤原倫寧の娘
(異母兄、道綱の母)
・藤原忠幹の娘
(異母兄、道義の母)
・藤原国章の娘
(異母妹、綏子の母)
道長の父 藤原兼家について、、
少し余談になりますが、道長の父 藤原兼家について触れておきます。
兼家は摂関家の三男として生誕していたので、息子の道長同様に本来なら後継ぎではありませんでした。
ところが後継ぎの長兄 伊尹(これただ)が病で亡くなり、同母の次兄 兼通(かねみち)と関白職を巡って口論となります。
同じ母から生まれた兄弟でしたが、非常に仲の悪い兄弟でした。
結局、 関白職は次兄の兼通となりますが、お互い確執をもったまま兼家は不遇な時期を過ごします。
やがて兄の兼通は重病となり977年12月に亡くなりますが、次の関白職を誰にするのか遺言を残しています。
遺言で次の関白に指名したのは兼家ではなく、従兄弟を指名したのです。
余程、弟の兼家に譲るのが嫌だったのでしょうね。
権力の座から遠ざけられた兼家ですが2年後に右大臣として復権し、完全な権力を手中にしたのは亡くなる前の晩年でした。
966年に藤原道長が生誕した頃、父の兼家は長兄 伊尹の厚遇や天皇の御代替わりなど官職や官位を得ていましたが、まだ完全な権力を手にしてはいない状況でした。
続いて、道長が何をした人かについて触れていきます。
藤原道長は何をした人?
藤原道長が何をした人かと言うと下記の通りです。
・花山天皇の退位と出家に加担した?/986年
・兄 道隆の嫡男 伊周(これちか)との政争に勝利/996年
・娘の彰子に有能な女流歌人を女房(女官)として仕えさせた/1000年代?
・4人の娘を入内させる
(彰子 999年/妍子 1010年/威子 1018年/嬉子 1021年)
・摂政に就任しているが、関白に就任したことは一度も無い!/1017年
・出家後に受戒の儀式を催して法名を得る/1019年
・法成寺の創建/1020年、1022年
歴史教科書で学んだことでは、娘を入内させて摂関政治を行ったということが一番に頭に浮かぶのではないでしょうか。
それぞれについて触れていきます。
花山天皇の退位と出家に加担した?/986年
986年(寛和2年)7月31日に花山天皇(かざんてんのう)の退位と出家をさせるために寛和の変(かんなのへん)という政変が起きます。
花山天皇の側近として藤原道兼(道長の同母兄で兼家の三男)が出家を促しますが、道兼の父 兼家が懐仁親王(やすひとしんのう/後の一条天皇)を次の天皇に早期に即位させるために画策したものです。
懐仁親王は兼家の娘 詮子(あきこ)と円融天皇(えんゆうてんのう)の第一皇子で、兼家から見て外孫ということになります。
この政変は兼家が摂政就任として権力を得るために仕組まれたものでした。
おそらく兼家の五男 道長も、この件に加担していたと思われます。
道長のしたことは、退位して出家した花山天皇の事の経緯を時の関白であった藤原頼忠に告げていたことです。
兄 道隆の嫡男 伊周(これちか)との政争に勝利!/996年
990年(永祚2年)に父 兼家が亡き後に、2人の兄 道隆と道兼が後を継ぎますが、兄たちも相次いで亡くなります。
権力の座に就くことが無いはずだった道長に転機が訪れますが、兄 道隆の嫡男 伊周(これちか)と権力の座を争います。
兄 道隆は亡くなる前年に嫡男 伊周の権威を高めるために内大臣に21歳という若さで就任させています。
道長は伊周と8歳しか違わない伯父でしたが、官位は下でした。
兄 道隆は強引な手口を使ってでも我が子 伊周に後を引き継がせたかったようですね。
しかし、伊周に権力の座を脅かす出来事が起こります。
兄 道隆が亡くなった後に長徳の変(ちょうとくのへん)という政変が起こるのです。
別の言い方では、花山法皇襲撃事件とも言います。
この事件は伊周の勘違いから起こります。
この政変内容が次の一文です。
『長徳2年(996年)頃、道隆の遺児である藤原伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く』
引用:長徳の変 経緯より 「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
伊周が通っていた三の君に出家した花山法皇が通ったと勘違いしています。
実際に花山法皇が通っていたのは寵愛した女御 忯子の妹である四の君だったわけですが、同じ屋敷に住んでいることから伊周が勘違いしたのです。
しかし、仮にも元天皇で上皇でもある御方に弓で射抜くなど、やりすぎにもほどがありますよね。
この襲撃で法皇に付き従っていた子供2人が殺害されたのではないかという説もあります。
後に襲撃事件の噂は広まり、道長にとっては伊周を権力の座から引きずり下ろすのに都合の良いものとなるのです。
伊周と近しき一族を含めて11人が勅命で左遷などの処罰を受けます。
道長はようやく政敵を排除して政争に勝利します。
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娘の彰子に有能な女流歌人を女房(女官)として仕えさせた!/1000年代?
1000年代あたりに、娘の彰子に有能な女流歌人を女房(女官)として仕えさせています。
彰子に仕えた女流歌人は6人いたようです。
*彰子に仕えた女流歌人
・紫式部
・和泉式部(いずみ しきぶ)
・赤染衛門(あかぞめえもん)
・出羽弁(でわのべん)
・伊勢大輔(いせのたいふ)
・大弐三位(だいにのさんみ)
女流歌人らが彰子に仕えた経緯について記載します。
紫式部
紫式部は「源氏物語」の作者として有名ですが、その「源氏物語」の評判を聞いた道長が式部の才能を見込んで、娘の彰子の家庭教師として仕えさせています。
宮中に仕えながら物語は完成します。
和泉式部(いずみ しきぶ)
和泉式部は「百人一首」や「和泉式部日記」などの歌人として有名です。
一条天皇の中宮である道長の娘 彰子に仕えたのは1008年〜1011年頃と見られています。
赤染衛門(あかぞめえもん)
赤染衛門は「栄花物語(えいがものがたり)」の作者として知られています。
ただ、この物語は30巻までは赤染衛門が作者で、続編は他の女性らが書いたと見られています。
彰子に仕えた具体的な時期は分かりませんが、元々は左大臣の源雅信(みなもと の まさざ)の邸内に出仕していました。
源雅信は993年に亡くなっていますから、後に雅信の娘で藤原道長の正妻でもある源倫子(みなもと の ともこ)に仕え、そのままの流れで道長の娘 彰子に仕えたのだと思われます。
出羽弁(でわのべん)
出羽弁は平安時代中期の歌人で先ほどの赤染衛門が30巻まで書いた「栄花物語(えいがものがたり)」の続編の一部を7巻まで書いたのではないかという説があります。
彰子に仕えた時期は分かりませんが、彰子に仕えた後に彰子の妹で後一条天皇の中宮となっていた威子(たけこ)に仕えています。
威子の入内は1018年であることから彰子に仕えたのは、それ以前であると思われます。
伊勢大輔(いせのたいふ)
伊勢大輔は歌人で中古三十六歌仙の一人です。
生誕や死去日などがハッキリとしておらず、彰子に仕えたのもいつ頃なのかが分かりません。
大弐三位(だいにのさんみ)
大弐三位は百人一首の歌人で紫式部の娘です。
本名は藤原賢子(ふじわら の かたいこ)と言います。
他にも歌人名で越後弁(えちごのべん)とも呼ばれます。
1017年(長和6年)頃に母 紫式部の後を継ぎ彰子に仕えています。
後に後冷泉天皇の乳母となっています。
4人の娘を入内させる(彰子 999年/妍子 1010年/威子 1018年/嬉子 1021年)
藤原道長は4人の娘を天皇家に入内させています。
*娘を嫁がせた天皇
・一条天皇に彰子(あきこ)/999年
・三条天皇に妍子(きよこ)/1010年
・後一条天皇に威子(たけこ)/1018年
・後朱雀天皇に嬉子(よしこ)/1021年
それぞれの天皇に娘を嫁がせているので、道長から見て天皇の血縁関係も複雑になります。
*道長から見ての天皇との血縁関係
・一条天皇(甥、婿)
・三条天皇(甥、婿)
・後一条天皇(外孫、婿)
・後朱雀天皇(外孫、婿)
一条天皇と三条天皇には、道長の姉たちの血筋が入り、後一条天皇と後朱雀天皇には道長の娘の血筋が入っています。
道長は3人の娘を天皇に嫁がせたことで「一家立三后」と呼ばれています。
4人の娘を実際に嫁がせているので、「四后」ではないかと思われるかもしれませんが、最後に後朱雀天皇に嫁がせた嬉子が親仁親王(ちかひとしんのう/後の後冷泉天皇)を出産から2日後に亡くなります。
東宮妃としての扱いで亡くなったので「后」ではないのだと思います。
また、嬉子は道長の娘なのですが、兄の頼通(よりみち)の養子になっていることも影響しているのかもしれません。
摂政に就任しているが、関白に就任したことは一度も無い!/1017年
藤原道長は摂関政治を行ったと歴史教科書で学んでいるはずなので、関白に就任したことは一度も無いというと意外に思われるかもしれません。
摂政は天皇が幼い、病弱などで政務を行えない時に補佐し、関白は成人した天皇を補佐する役目であることは学びましたよね。
どちらも補佐する点では同じです。
道長は三条天皇から関白に就くように薦められたことがありますが断っています。
外孫で婿でもある後一条天皇が即位してからは摂政に就任しています。
ただ、就任してから1年後(1017年3月)には嫡男の頼通に摂政の位を譲っていますから、あまり摂政や関白の位にこだわりが無かったのかもしれませんし、既に自身の血筋の近い天皇が即位していることで権力としては事足りると考えたのかもしれないですね。
出家後に受戒の儀式を催して法名を得る/1019年
1019年(寛仁3年)の3月頃に道長は病になり、髪を剃って出家します。
半年が経過した頃に東大寺にて受戒の儀式を行い「行観」「行覚」という法名を得ています。
後に「行観」から「行覚」に変わっているようです。
法成寺の創建/1020年、1022年
法成寺(ほうじょうじ)は、道長が創建のために人や資財を投じて、1020年3月には九体阿弥陀堂(くたいあみだどう)、1022年7月には金堂と五大堂が完成しています。
この造営には公卿、僧侶、民衆にも負担の役目を命じたそうです。
現在は廃寺で京都市上京区の東端に法成寺があったと見られています。
藤原道長の経歴
最後に藤原道長が生誕してからの経歴について記載しておきます。
*藤原道長の経歴
・966年(康保3年)/藤原兼家の五男として生誕
・980年(天元3年)/従五位下の位を初めて授かる
・984(永観2年)/右兵衛権佐の官職に就く
・986(寛和2年)/寛和の変による花山天皇の退位、出家の経緯を関白 頼忠に報告
・同年/一条天皇即位後に従四位下と左近衛少将の職に就く
・987年(永延元年)/従三位となる
・同年/左大臣職についていた源雅信の娘 倫子を娶る
・988年(永延2年)/元左大臣の源高明の娘 明子を娶る
・同年正月?/権中納言となる
・991年(正暦2年)/権大納言となる
・992年(正暦3年)/従二位となる
・996年(長徳2年)/長徳の変により、兄 道隆の嫡男 伊周を含めた11人らの政敵を一掃
・同年7月/左大臣に就任
・998年頃?/腰の病を患う
・999年(長保元年)11月/娘の彰子を一条天皇の後宮に入内させる
・1000年(長保2年)/先の后に定子がいながら、強制的に娘の彰子を皇后にした
・1010年(寛弘7年)/娘の妍子を居貞親王(三条天皇)に入内させる
・1012年頃~1016年/親政を望む三条天皇と対立する
・1016年(長和5年)/後一条天皇即位後に摂政に就任
・1017年(寛仁元年)/摂政を辞して、嫡男の頼通に摂政職を譲る
・同年12月/従一位と太政大臣に就任するが、翌年前には辞した
・1018年(寛仁2年)/道長の娘 威子を後一条天皇に入内させる
・1019年(寛仁3年)/病を得てから出家する
・同年/受戒の儀式を行ってから法名を得る(行観、後に行覚)
・1020年(寛仁4年)/法成寺創建(九体阿弥陀堂、2年後に金堂と五大堂を造営)
・1021年(寛仁5年)/道長の娘 嬉子を敦良親王(後朱雀天皇)に入内させる
・1028年1月3日(旧暦 万寿4年12月4日)/62歳で死去
道長が詠んだ「望月の歌」は現在は解釈が変わっている?
余談になりますが、最後に道長が詠んだ有名な「望月の歌」について触れておきます。
『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば』
引用:藤原道長 概要より「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」
道長が詠んだ有名な「望月の歌」は誰もが道長自身の栄華を誇った詩として認識している人が大半だと思います。
娘を天皇家に嫁がせた事で絶対的な権力を得て詠んだ詩として「この世は私のものだ!」とか「私の天下だ!」という認識で歴史の教科書では覚えていたのではないでしょうか。
しかし、現在は詩の解釈が変わってきているようです。
道長が詠んだ詩の「この世」は世の中ではなく、「世」が「夜」を表していて、「望月」の「月」は「お妃(帝に嫁いだ娘の事)」であると考えられているようですね。
つまり、、
という父として娘を思う親心から出た詩ではないかと考えられているようですね。
「望月の歌」は権力者の栄華を誇った詩ではなく、娘を思う親心の詩と見られています。
この記事はウィキペディア情報を参考にしています。
*参考サイト
・藤原道長「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
まとめ
藤原道長の生い立ちや何をした人かについてでした。
藤原道長の生い立ちは、、
道長は本来、権力の頂点に立つはずではありませんでしたが、兄たちが亡くなったことで権力者の地位に上り詰めます。
藤原道長が何をした人かについては先ほど記載した通りです。
・花山天皇の退位と出家に加担した?
・兄 道隆の嫡男 伊周(これちか)との政争に勝利!
・娘の彰子に有能な女流歌人を女房(女官)として仕えさせた
・4人の娘を入内させる
・摂政に就任しているが、関白に就任したことは一度も無い!
・出家後に受戒の儀式を催して法名を得る
・法成寺の創建
以上がまとめです。